子どもとつくる楽しい国語・文学の授業

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ブログ・国語科授業を考える

ほぼ2年近く随筆を書いて来ました。サイト上のブログのサービスが終了したため、ここに掲載しています。一度、ご覧ください。 

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2014年07月11日(金) 父の忌日

 1995年7月10日、父は危篤の状態になり、日付が変わって夜中すぎ、息を引き取った。父・秋満は、昭和4年11月24日の生まれ。義一と民代の三男として誕生し、幼いころは体が弱く「鐡男」と改名をしたこともあったが、昭和の戦前・戦後を几帳面に生きて、齢67歳にして因島の医師会病院にて他界した。

 あれから19年、助教授昇任の人事が決まらぬ前に父に別れを告げねばならなかったことと、去り逝く父に何も伝うべきことばを持たなかった自分のことが思い出される。

 本日2014年7月11日、「秋近う」の物名(もののな)で親しまれている、わが家の玄関先の「桔梗(きちかう)」の花が綻び始めた。

 父の忌日に際し、しばらくのあいだ、この「国語科授業を考える」なるブログはお休みさせていただきます。各方面のご愛顧に心より御礼申し上げます。

 今日以降は、http://jdc-toshiya.com/の充実に努めてまいります。引き続き、どうぞ、よろしくお願いします。

2014-07-11 12:35 | 記事へ

2014年04月30日(水)ゆく春のなかで

 桐の花が咲き、藤棚もいまを盛りと色あざやかだ。木々の若葉は、ますます萌えあがり、その色合いは、深みを増している。

 あらためて、芭蕉の俳句。

  〈ゆく春や鳥啼き魚の目は泪〉
  〈ゆく春を近江の人と惜しみけり〉

 ゆく春を愛惜するのは、別れを告げられし者の別れゆく者への挨拶でもあろうが、いまのボクは、このガタゴトと揺れる電車のなかで、ぼんやりとたそがれているし、上げ潮の陽気に身をまかせ、なかば初夏の到来をひそかに悦んでいる。

  〈ゆく春や重たき琵琶の抱き心〉

 蕪村の作である。光源氏の青春の愁いに沈んだ横顔が彷彿とする艶なる一句である。

  〈長持に春ぞ暮れゆく更衣(ころもがへ)〉
  〈御手討の夫婦なりしを更衣〉

 上段は、芭蕉と同時代を生きた西鶴の句。下段は、蕪村の句。暮れゆく春は、実は、心機一転、ひらりと軽やかな衣替えのときを待っていたのだ。ふりむくことより、風に吹かれながら溢れる光のなかを前へ前へと進んでいくこと、これぞ季節の然らしむるところであろう!

  〈ゆく春のなかを「ふらここ」ゆらしたし〉
  〈青春はブランコ漕いで恋をして〉

 明日から5月。あらたな夢に生きるときなのだ。

2014-04-30 22:13 | 記事へ |

2014年03月27日(木)春のお彼岸

 今年2014年、彼岸入りは3月18日、その中日は21日。そして、24日が彼岸明けである。暑さ寒さも彼岸までとは、古人の知恵である。このところの陽気は、まさに春盛りなりである。

 いまや水仙に替わって、白木蓮の季節を迎えている。天に向かってその蕾たちはあまた立ち揃い、春のお彼岸を送り出さんとひそやかに声をあげているかと感ぜられる。

  〈北に向かいし枝なりき/花咲くことも遅かりき〉

 国分一太郎が好んで揮毫したことばである。丸山薫の詩や千昌夫の歌のとおり、北国の春は辛夷(こぶし)の花とともにやってくる。

 それはさておき、このお彼岸、ボクは広島と因島にいた。亡き父と恩師・森野繁夫先生の墓前、仏前に参り、故人を偲んだ。彼岸なればこそ此岸の人は、その故人を仲立ちに懐かしい出会いを果たす。まさにお導きというにふさわしい。

 その遥か遥か昔、いまの春夏秋冬の季節のめぐりは、春秋のニ季であったと聞いたことがある。暑さ寒さの境たる春分の日と秋分の日は、ともにお彼岸の中日。春にはレンギョウ、ハクモクレン、秋にはマンジュシャゲにコスモス。区切りの時を告げる花々がたおやかに咲き揃う。至れるかなとひとしおの感慨に満たされる。彼岸潮とて、また然り。その大きな振幅は、往還の象形であり、ボクらは、まっすぐに宇宙と交感する。

 〈幸(さき)はひの春や彼岸の燕尾服また懐かしきひととなりなむ〉
 〈懐かしきひとに彼岸の笑まいかな〉

 またひとめぐり、前へ前へと進みたい。

2014-03-27 17:53 | 記事へ |

2014年03月25日(火)家のことば

 
 環状線の天満駅に降り立つと、外回りのホームからあれこれの看板が見える。「炭火焼鳥」もあれば、「マクドナルドMcDonald's」もある。その統一のないさまを、ボクの家のことばでは「わや」という。散らかしていることを「やげっとる」というのと同じく、あまり聞かないことばであるまいか。

 しかしながら、Googleで「○○ 方言」で検索してみると、「わや」も「やげる」も、方言としていくつもの記事がヒットする。とはいえ、「ひしゃげる」にしても「だいぃ」にしても、やはり家のことばは、生活のニュアンスをたっぷり含んでいることに変わりはない。

 国分一太郎は、晩年、「ちちははのくにのことば」をテーマとした随筆をしきりと書いている。みかんをつくり、包丁を研いでいた父がなくなり、おくどさんで飯炊きをし、漬物をつけていた母が病弱で伏せっているいま、ボクは、いわゆる学問や学校のことばを知識としてたくさん蓄えてきたけれど、肝心の生活の文化は何一つとして受け継いでいないように思えてならない。

 昔、ボクの家は、夏には蚊帳が掛けられ、冬には土間で餅つきの行事があったし、お仏壇の上には神棚があって、おりおりに父は灯明をあげてはご祈祷をしていた。昔なら当たり前のそんな生活は、いまのボクにはない。隔絶したというか断絶しているというべきであろう。

 その昔、近所に鍛冶屋があって、しだいに鉄工所が増えはじめたころ、携帯電話やパソコンなどなかったし、そんな道具が20年後に実用化されるなど夢想だにできなかった。手紙や葉書による文(ふみ)のやりとりが至極当然だったし、それらは郵便屋さんが届けてくれるものだった。パーソナルにシフトしたメディアが驚異的なスピードで発達し、オンラインが通常となるなかで、生活は、著しくハイテク化され、家々の手仕事の文化、共同の習俗が壊滅していったのではあるまいか。進歩こそ、新たな神として信奉され、昔ながらのものは旧弊旧態としてうち捨てられていったと、いまにしては思われるのである。

 なにも懐古趣味にふけってことあげしているのではない。実は、伝統は、とっくの昔に断たれている。日常から遥かに遠い存在が遺産となるように、遺産は、いわばいまは亡きものの世界である。しかし、ことばは、その遺産へのよすがであり、いまを生きるボクらの生活のなかで息を吹き返す。神々の話がいまもなおリアリティを失わないのは、そうした消息を物語っているのではあるまいか。

  〈春彼岸神武天皇こりゃ古い〉

 昔、昭和4年生まれの母は、なにかのときには「神武天皇、こりゃ古い」と口にしていた。庶民のことばは、いまも健在だ。

2014-03-25 11:23 | 記事へ |

2014年03月24日(月)聞き違い

 バスに乗っていて、機械音のデジタルのアナウンスの「霊園前(れいえんまえ)」が、「永遠前(えいえんまえ)」と聞こえてしまった。

 なかなかに意味深長である。

 これは、そら耳効果といえるだろうか?

2014-03-24 12:22 | 記事へ |

2014年03月14日(金)「なっくつ」のころ

 先日、春の雨で、長靴をはいた女性もいた。昔にくらべ、長靴はブーツ風におしゃれになったが、長靴は長靴である。 ボクの幼いころ、長靴を「なっくつ」と言っていた。 そのことをふいにおもいだし、なにかこころ楽しくなった。

 もうすぐお彼岸、ぼたもち、「あんころもち」のときである。昔は、家でもちをついては、母があんこを炊いて、幼子が「てごう(手伝い)」をしては、叱られたものである。

  〈ちちははのぼたもち恋し島育ち〉

2014-03-14 21:52 | 記事へ |

2014年03月05日(水)君待てば

  〈君待てば三月の雨蕭蕭(せうせう)と〉

 大阪に来て、坪内稔典先生にお会いして、俳句を意識的につくりはじめたころの作である。もうかれこれ、20年近く前のことである。こうしてふりかえってみると、生生流転というか、大げさに言えば、有為転変ということばを深く自覚する歳月であったかとおもわれる。

 二度の大震災は、いまなおボクという存在を根柢から揺るがし続けているわけであるが、いずれも穏やかな春が来る前の大惨事だった。1995.1.17と2011.3.11、奇数年の奇数月の奇数日の一致に驚きを禁じえないが、ボクらの立っているこの大地(ガイヤ)が想定を越えるエネルギーとともに激しく激しく揺れたのだ。そして、ボクらの人生もまた、取り返しのきかない悲しみとともに激動したのだ。

 フランツ・カフカの『城』、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』 のことがついぞ頭をよぎるのであるが、春は待たれる季節なのである。彼岸を境にして、白木蓮の蕾は天に向かって、灯りをともす。折しも、大学の卒業式のころである。

  〈校塔に鳩多き日や卒業す〉

 中村草田男の句である。

  〈世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば〉

 山上憶良の「貧窮問答歌」のなかの反歌である。

 ヤマトタケルの白鳥伝説を持ち出すまでもなく、待たるる化身の神は、花や月や風ではなく、実は鳥だったのではないかとおもわれる次第である。

  〈五十路(いそじ)にて冬鳥のこと学びたし〉

2014-03-05 08:43 | 記事へ |

2014年03月01日(土)保守と革新

 日本国の首都である東京の知事選挙が、にわかに脚光を浴び、世間をとても驚かせた。もと日本国の首相の細川護煕氏が、脱原発を錦の御旗に出馬したからである。それもさることながら、これまた日本国のもと首相で郵政民営化を成し遂げた稀代の策士である小泉純一郎氏と肩を並べ、タッグを組んで選挙を闘ったのである。

 知事と首相、どちらが格が上であるかは、あらためて問うまでもないことであろう。もちろんフランスのジャック・シラクが首相を終えてパリ市長に就任した例やロシアのプーチンが任期の関係で大統領のあと首相になったためしなどなくはないが、シラクはパリ市長のあと大統領になっているし、プーチンも首相のあと大統領に返り咲きを果たしている。

 皇居があり、政府機能の中枢が集中している首都・東京のトップたる知事の権能とは何であるか? そう問われても、困るわけであるが、都知事は東京都の住民自治の首長であり、東京都という地域の代表者というか責任者であって、いわゆる国政の直接的な担い手ではない。さりながら、警視庁と警察庁の違いがたぶんに相対的であるように、首都の首長の政治的な影響力や権能は、他の自治体の首長のそれとは別格のものがあると言わざるを得ない。

 東京都の年間の予算は、およそ13兆円、インドネシアの国家予算に相当するという。また、総務省統計局のサイトによると、日本の人口は、平成24年10月1日現在で、1億2751万人ほど、そのうちの東京都の人口が約1323万人で10%を越えている。最新の推計データでは約1329万人で、微弱ながら増加傾向にある。首都たる東京は、世界に冠たる国際都市のひとつであり、日本国の顔である。さりながら、東京都には23区のほかに八王子市や町田市もあれば府中市や調布市もある。東京都の統計によると、区部が859万人、市部が402万人ほどである。

 ところで、ソーシャルネットワークサービスのことをSNS(エスエヌエス)という。相互に情報やコメントをネット上で共有し合うサービスのことで、Twitterやfacebook、いま大流行のLineなどがこれに該当する。実際のところ、これらのサービスは、保守と革新、どちらに利するのであろうか?

 アラブの春をもたらしたものは、そうしたソーシャルネットワークの情報が大いにあずかって力あったわけであるが、一方でスノーデン氏による告発からも明らかなように、保守を是とする権力の側は、情報を管理し、言論統制を秘密裡におこない得るのである。

 予測不能なかたちで増殖増幅するヘゲモニーは、得体の知れぬ巨大なパワーをもって人々を突き動かし、往々にして破壊的に機能するのである。制御不能な状況に常にボクらは身を曝している現実をもっと真剣に自覚しなければならないのではないか?

  〈風誘う花より団子をよろこばん〉

2014-03-01 16:00 | 記事へ |

2013年11月05日(火)時代のことば

 「やられたら、やり返す。倍返しだ。」「お・も・て・な・し。おもてなし。」「じぇじぇじぇ。」

 いずれも、時代を牽引する流行りことばであると同時に、時代の気分が欲していることばでもある。「報復」と「歓待」と「驚嘆」と、外部世界に対する半ば強い感情的な反応は、空洞化しているボクらの内面世界のしからしむるところであるのかもしれない。

 人々を魅了することばとしては、近代の文学とても同じようなことであろう。明治維新の前年(慶応3年、1867)に四国松山に生まれた正岡子規は、俳諧連句から五七五を切り出し、写生を基本とする近代俳句を開拓、その樹立に精魂を傾け、35年の人生を駆け抜けた。子規は、福澤諭吉同様、明治の御代の開明家・啓蒙家であり、まぎれもなくハイカラな近代人なのである。つまり、子規もまた、計り知れない時代のエネルギーに突き動かされながら、それに棹さし時代の欲することばを発明し、それを鮮烈なかたちに織り成していったのだ。明治35年(1902)、9月19日未明、正岡子規は、近親者に見守られながら、晩年の生活のすべてであった六尺の病床で息を引き取った。

  〈柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺〉

 時代の鐘を鳴らすためには、愛好すること切なる柿を食すというその行為が引き金となる。というよりもむしろ、柿を食すというその我の個人の主体に依拠する行為がスイッチとなって、古代なる法隆寺という時空に近代なる梵鐘の音が響きわたる。必然を導く我の存在こそこの句の眼目であり、そもそも法隆寺は、その時代の最先端たる舶来の文明の粋を集めた建造物であったのだ。

 子規の盟友・畏友であった夏目漱石は、明治44年の「現代日本の開化について」のなかで、その開化は「外発的」であり、「皮相上滑りの開化」である。しかし、だからといって、それを否定するわけにもいかず、「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない。」と断じている。

 開化それ自体は、花の蕾が綻びゆくがごとく本来内発的に展開していくものであるが、明治日本の開化は、外からの強圧的な力によって惹き起こされ、西洋の先進的な内発的文化に必死でしがみつこうとし、結果、ひきまわされ、ふりまわされ続けながらも、そのレースから脱落するわけにはいかなかったのである。

 グローバル化した高度情報化社会の現代日本のボクらの開化もまた、さして事情は変わらない。というよりも、ソーシャルネットワークの膨張と錯綜する力関係のなか、闇雲に外発化されざるを得ない状況にボクらは巻き込まれ、大きな渦のなかで迷走を続けているように思えてならない。

 ユートピアないし桃源郷は、外界から隔絶した場所に存在するとは、なんとも皮肉な話であるが、そこに行く道は、必ずや存在する。が、しかしそこには、時代の流行りことばは、原理的に存在などしないだけの話である。

  〈秋たけてもみぢ色づく時うまし〉

2013-11-05 12:57 | 記事へ |

2013年09月07日(土)傾いて

 あの激烈な夏の暑さは、すでにない。そのあまりの迅速さに驚かずにはいられない。このところ、半袖だけでは、からだが冷えて、心もとない。今日は、長袖に、上着のジャケットも羽織っている。

 九月に入り、あきらかに秋のたたずまいである。朝夕の気温はぐっと低くなり、透明感を増した日の光といい、その空の青さといい、素秋の色である。

 季節は、傾いている。と、ボクは、勝手に感じている。気温の低下や雨がちの空模様のなか、あの呪いさえした酷暑の夏が、過ぎ去ったがゆえに、懐かしくもいとおしくさえ感じられ、一層ボクは、かなしくなってしまうのだ。

 とはいえ、冷やおろしと実りの秋がやってきたのだ。いちじくに秋刀魚、葡萄に松茸、なにより栗ごはんが美味しい季節となった。希望期待の秋である。

  〈王道の道を行かばや鄙(ひな)の秋〉

2013-09-07 08:34 | 記事へ |

2013年08月24日(土)久しぶりの雨の日に。

 「雨が空を捨てる日は」ではじまる中島みゆきの歌がある。

  〈雨が空を捨てる日は/忘れた昔が戸を叩く/忘れられない優しさで/車が着いたと夢を告げる〉

 平安朝文学の通い婚の叙情は、額田王(ぬかだのおおきみ)の歌以来の伝統である。

  〈君待つと吾が恋ひ居(を)ればわが屋戸のすだれ動かし秋の風吹く〉

 ものの本によると、この歌は、いまは亡き近江天皇(天智天皇)を偲んで作ったものということだ。いわば挽歌である。

  〈青春の遅き歩みの帰り道夢は開くとわれは歌ひき〉

 本当に遠いひとのことでありながら、突き刺さったまま眠っていた藤圭子のうたのことばがボクを呼び覚ますのだ。雨が空を捨てる日は。

 合掌。

2013-08-24 10:10 | 記事へ |

2013年08月22日(木)「秋もよひ」のこと

 いまにも雨や雪が降り出してきそうな気配やそのようすを「雨もよひ」「雪もよひ」とは言う。しかし、秋の景色が明らかに兆してきたことを「秋もよひ」とは言わぬようだが、今日の気分としては「秋隣り」ではなく、「秋もよひ」としたいのである。

 今年の猛暑は酷暑を超えて、苛烈にすぎる。立秋を過ぎて、一層その勢いを増した感さえある。さりながら、このニ、三日、朝の空の色といい、夜風のいかばかりかの涼やかさといい、明らかに秋の気配である。

 地軸が傾き、自転しながら公転しているから、ボクら日本の四時(しいじ)のめぐりは、変化に富み、うつろってゆく。兼好法師の述べたるがごとく、まさに、「をりふしの移り変はるこそ、ものごとにあはれなれ」である。

  〈川風も秋となりけり釣(つり)の糸〉
  〈象も耳立てて聞くかや秋の風〉
  〈来ぬ人をあだにまつ夜の月すみてわが身ひとつの秋ぞさびしき〉

 いずれも、岩波文庫『荷風俳句集』(加藤郁乎編、2013年)に収載されている荷風の詩歌である。秋の叙情は、優にさびしきものである。

  〈送らんとせねはあらねど夏のゆく〉

 またあらためて、やや傾きて、わが人生の「悲秋」の歩みを進めていきたい。

2013-08-22 09:34 | 記事へ

2013年07月28日(日)夏を送る。

 先日、郷里の姪に電話をしたら、受話器のむこうにツクツクボウシの鳴き声が聞こえた。いつものバス停そばのクヌギの木には、ドングリの実が青く育っている。秋は、確実にそこに兆している。

 大暑を過ぎ、天神祭があって、各地に花火大会が催されている。豪華にして華麗なる花火の競演は、はかなくも美しい。というよりも、はかなく消えゆくからこそ、なおのこと美しい。

 大切なお客人を立派な料理や美しいことばや華やかな催しものによってもてなすための場が「饗宴」であり、その行為は、古いことばでは「あるじす」という。

 苛烈な夏は、炎のごときエネルギーをたたえ、大王の威厳をもって君臨している。その夏を送り、つぎなる豊饒をもたらす秋の神を迎えるために、ボクラは、祭りをとりおこない、贅を尽くして盛大に花火を打ち上げるのではないか?

  〈大輪の花もておくる夏の神〉

 そろそろ秋を迎える支度にとりかかりたい。

2013-07-28 08:30 | 記事へ

2013年07月20日(土)百日紅を見かけた。

 今年は、例年よりも早い梅雨明けとなった。

 そのことに符号するかのように、桔梗の花が開き、トンボがやってきて、クマゼミはしきりに鳴きたて、それに先んじて、キリギリスも、あまた草むらに夏の音を響かせている。そして、今日、バス停に向かう途中、他家の玄関先に百日紅の花が咲き出しているのを見かけた。こころなしか、青空には秋の色が感ぜられるのである。

 さてさてこのところの猛暑の苛烈さには、ほとほと参ってしまうが、家の近くの田んぼに水がはられているせいか、夜は風が吹いてくる。そのことが、こころを落ち着かせてくれる。

 ほんに忙しない日々を送っていて、報道される数々の悲しいニュースになおさらこころはゆさぶられ、安堵の日々は遠退いている。

 晩夏とは、そういう季節なのであろうか?

 このところ、HBO制作のシリーズ番組「ROME」をよく見ている。ユリアス・カエサルがガリアからローマに帰国し、独裁者となり、ついには元老院の議場で刺殺され、アントニウスが執政官(コンスル)の位を得るまでの話がシーズン1で、12話から構成され、シーズン2は、オクタビアヌスがカエサルの後継者としてアウグストゥス(正帝)となり、ローマの秩序を再構築するまでの話である。

 血生臭いシーンや激しい愛の交換の場面が矢継ぎ早に展開され、ローマ人は、まっこと肉食系であると痛感させられる。それに比して、自分は、いかにも草食系であるとおもい知らされるのであるが、しかし、昼ごはんには、たいていパンチ力のある肉の味を求めてもいる。

 わが肉体たる人間なるものは、なんともはや度しがたい存在であるとは、この晩夏の素直な感慨である。

  〈この味が生き甲斐だよね生ビール〉

 秋には、冷やおろしにて、も少し沈思黙考のときを生きてみたい。

2013-07-20 13:50 | 記事へ

2013年06月26日(水)夏至越えて切なや今日の宴かな

 先週の6月21日の金曜日は、夏至であった。そのことに気づいたのは、翌日の土曜日22日の夕刻であった。ちょっとした会合があって、4時半すぎから行きつけの焼肉工房でわいわいと楽しく飲んでいたとき、ガラス窓の外にひろがる夕陽の明るさに、そういえば、昨日が夏至だったなあというおもいがにわかに湧いてきて、ますます宴に力が入って、ボクは、際限もなく、饒舌になっていた。

 このところ、雨や蒸し暑さや仕事疲れのせいか、ふと立ち止まって樹木を見上げたり、そぞろ歩きながら田んぼやあたりのようすを眺めたりすることがない。そのことにはたと気づかされたのは、植裁のコクチナシの薫りであった。夜遅く駅について足早にバス停に向かって階段を降り始めたとき、花の薫りが身を包んだ。夜のキンモクセイがそうであるように、通りすぎがけにその花の薫りはやってきて、ボクを立ち止まらせた。だから、いつもふりむきざまに、その花を認めることになる。

  〈深更のふりむきざまのキンモクセイ〉

 夏至を越え、コクチナシ(小梔子)やネム(合歓)やアジサイ(紫陽花)の花の季節は終わり、やがてキキョウ(桔梗、きちかう)が晩夏を彩るのである。「秋近(あきちか)う」なりにけりとの感慨のなか、夏至の峠を越すごとく、ボクたちは、秋に向かって1日1日と緩やかに下っていく。

 人生50年を過ごしてきたせいか、そのことが、木下順二のことばをかりるならば、「なんともかとも」切なくも悲しいのである。

  〈短か夜や今日には今日のパンつくる〉
  〈梅雨に入る一歩一歩の上り坂〉

 とにもかくにも、日は昇り、やがてまた冬至も来たるわけだから、その循環する時間のなかに身を処し、「日々是好日」たらしむべく、ひらりゆるるかに生きていきたい。

2013-06-26 23:40 | 記事へ

2013年06月18日(火)庭のあじさい

 先週の6月11日は、雑節の入梅であった。学生の話によると、本邦では傘の日であり、海の向こうでは、カメハメハ大王がハワイを統一した記念日(アニバーサリー)であるとか。わが家の庭では、あじさいが昨年よりもひとまわり大きくなって、花の季節を迎え、先日のひとしきりの雨で息をふきかえしている。

  〈あじさいや大きな夢はばらばらに〉

 加藤楸邨の句である。実に見事である。

  〈あじさいの家を背にして旅のかた〉

 遠足に出かける子どもたちの声が聞こえて、ふとおもいついた句である。

 それにしても、あじさいの成長は著しい。年ごとに、せり出すように、ひとむれの株は盛り上がっている。わが家の庭のあじさいとは、すでに10年以上の付き合いであるが、今年は、なぜかその旺盛なるさまが心にかかっている。

  〈こんもりと息をひそめて眠りおるひと群れの闇夜のあじさい〉

 これはと得心のゆく「あじさい俳句」なるものをものしたいとおもいながら、いまだに果せずにいるが、学生と「あじさい」をテーマに歌会をしたとき、「夜のあじさい」としてかたちになったのが、さきほどの歌である。そのとき、ある学生が作った歌は、つぎのニ首である。

  〈雨の中あかあおむらさきこんぺいとうきらきらひかる甘いあじさい〉

  〈雨の中去りゆく人の肩ごしに咲く紫陽花の花の色かな〉

 いずれも、情感のたたえられた優しい歌である。あじさいは、存外、歌に向いている題材かもしれない。

2013-06-18 13:57 | 記事へ

2013年06月03日(月)菜の花や

 先日、岩波書店の『江戸のあかり――ナタネ油の旅と都市の夜――』という絵本を読んだ。本文の筆者は塚本学さん、絵の作者は一ノ関圭さん。56ページの本で、「歴史を旅する絵本」の一冊である。初版は1990年2月に刊行されている。

 「江戸のあかり」は、江戸の半ば過ぎまで大坂から船で運ばれるナタネ油で支えられていたとはじめて知って大いに驚いたのであるが、大坂は、各地から集まった菜種から油を搾り出すナタネ油精製の一大拠点であり、とりわけ蕪村の生誕地とされる淀川べりの毛馬(けま)あたりには、春には見渡すかぎり一面の菜の花畑が広がっていたということを知って、やっとあの有名すぎる蕪村の俳句がすとんと腑に落ちたようにおもえてうれしかった。

  〈菜の花や月は東に日は西に〉

 この句におけるさかんなる菜の花のありさまは、大坂に運ばれて高価な油のもととなる菜の花の種(ナタネ)を約束する花の賑わいなのである。大いなる天地の間に、ときはめぐり、菜の花はやがて種を実らせ、ナタネは都市の人々の夜のあかりの源たるナタネ油として役立っていく。この一面の菜の花は、なんとも、頼もしい景色ではないかとおもえてきたのである。

  〈絶頂の城たのもしき若葉かな〉
  〈不ニひとつ埋(うづ)み残して若葉かな〉

 この大いなる頼もしき景色こそ、蕪村の蕪村たるゆえんなりと自得した次第である。

 そういえば、司馬遼太郎の忌日は「菜の花忌」であり、生涯大阪にあって作家活動をつづけた司馬遼太郎は子規を重んじ、その子規は、蕪村をこのうえなく重んじたとは。

 歴史は、わがうちなるものの力をかりて大切にしたいものである。

2013-06-03 15:32 | 記事へ

2013年05月19日(日)さつき待つ花たちばなの香をかげば

 一昨日の木曜日の夜、11時過ぎ、帰宅して玄関の鍵をあけようとしたとき、タッタッタタタと鳴き声が聞こえた。山ホトトギスの「初音(はつね)」を耳にしたことに僥倖(ぎょうこう)感をおぼえ、そぞろこころハシャギだすようであった。

  〈目には青葉山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつほ)〉

 江戸の山口素堂(そどう)の句である。芭蕉と『江戸両吟集』を出している。江戸っ子は、大金を積んでも、ひとに先んじていの一番に初鰹を食さんことに「いき」を感じ、船まで出して釣りたてを求めていたと、なにかの本で読んだことがある。

 それはともかくも、このところ、芍薬が豪華に咲き誇り、花橘がさかんに開花のときを迎えている。夏は来たりぬと、感慨はひとしおである。

 ネットの「六曜・月齢・旧暦カレンダー」によると、本日5月18日は、旧暦の四月九日とある。たしかに、初夏(はつなつ)である。1689年(元禄2年)のちょうどいまごろ、芭蕉は、曾良(そら)と同行二人、おくのほそ道の旅に出た。そういえば、アリやトカゲも、そこここに姿をあらわし活動を始めている。

 と、ここらあたりまでが昨日土曜日の感慨である。今日、日曜日は、お昼前から、久しぶりの雨となった。

 また明日からの1週間のため、今日は、雨をながめながら、英気を養いたい。

  〈毛馬きゅうり勝間なんきん雨うれし〉

2013-05-19 13:34 | 記事へ

2013年05月17日(金)大阪国語教育実践の会のホームページ

 大阪国語教育実践の会、通称「大阪JDC(ジェイディシー)」のホームページを下記のサイトに、あらたに開設しました。

           大阪国語教育実践の会

 より機動力、発信力のあるサイトをめざして、頑張っていきたいとおもいます。

 どうぞ、よろしくお願いします。

 なお、写真の猫の絵は、高1の夏休み、美術の宿題で描いたものです。名前は「黒兵衛(くろべえ)」、ダックスフンドのミックス犬の「権(ごん)さん」と仲良しでした。

2013-05-17 11:11 | 記事へ

2013年05月10日(金)立夏を過ぎて

 5月5日が立夏だった。このところ、関西は、晴れの日がつづいていたが、今日は、久しぶりの雨。かたや、北海道の各地では降雪にみまわれたりしていた。

 環太平洋造山帯(火山帯)に位置する日本列島は、縦に長い山々の連なる国でもある。その一方、琉球から樺太にいたる海域には、黒潮や親潮、対馬暖流やリマン海流など大きな潮の流れがあって、ゆたかな漁場が形成されている。

〈春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山〉

 ボクにとって、夏の到来の標は、桐の花である。うす紫の花の色合いといい、高い枝枝に咲き揃うているたたずまいといい、実に清らで麗しい。ここ大阪では、桐の花は、きまって立夏を刻するかのように盛りのときを迎え、ボクもまた初夏の到来にこころひろがりゆく心地よさを覚えるのである。

〈万歳\(^O^)/の優しき宴(うたげ)桐の花〉

2013-05-10 16:31 | 記事へ

2013年04月18日(木)春は、いつまで?

 大阪造幣局の「通り抜け」は、今週16日から始まっている。「普賢象」「楊貴妃」「欝金」「朱雀」など、多種多様の八重の桜が、たのもしく咲き誇っているにちがいない。

 さて、そのかたわら、そこここには、木々の若葉がみずみずしく輝いているし、クヌギの花は落ち初めている。

  〈ゆく春を近江の人と惜しみける〉
  〈ゆく春や鳥啼(な)き魚の目は泪〉

 少し汗ばむようなひざしのなか、春は過ぎ去り、夏がやって来ている。もちろん季節の名称は、連続した事象の相対的な区別にすぎないが、心持ちとしては画然としたものがある。

 今日4月18日、朝、散歩していたら、道端にポピーの花が端然と天に向かっていたし、すでに花を落として判子のような軸をあらわにしているものもあって、一層夏の到来を実感せずにはいられなかった。

  〈御手打の夫婦なりしを更衣(ころもがへ)〉
  〈ゆく春や重たき琵琶の抱き心〉

 こちらは、ともに蕪村の俳句。さきの芭蕉の句にくらべ、情感がゆたかに湛えられている。

  〈ゆく春の情けのままにあれこれの重荷振り捨て夏は来にける〉

 また、一歩一歩、前進していきたい。

2013-04-18 15:27 | 記事へ

2013年04月06日(土)さくらを詠む(2)「世の中は」

 家の近くに、それは見事な「しだれ桜」の木が幾本もあって、その地主さんは毎年、懇切丁寧に下草を刈って、実に見栄えのする姿を提供してくださる。実にありがたく、毎年、ボクは春たけてゆくさまに感じ入っている次第である。とりわけ、いよいよまた花びらのときを迎えんとして、花芽が萌えはじめると、木々が薄紅にけぶるというか、それこそほんに一身に燃え立つさまは、まことに稀有にして荘厳なる光景なのである。

 いまや、その木々は、「これはこれはとばかり」の花の季節を終えんとしてしている。「花の色はうつりにけりな」とも言いつべく、世の無常が体現されている。それにつけ、またしても思い起こされるのは、つぎの句である。

  〈世の中は三日見ぬ間の桜かな〉
  〈世の中は三日見ぬ間に桜かな〉

 「の」と「に」のてにをはだけの違いである。前者は、人口に膾炙(かいしゃ)した句で、世の中というのは実に無常なもので、たとえて言うなら、「三日見ぬ間の桜」、うかうかとしている間にはや花は散り去っていることよといった意味合い。それに対して後者は、いまかいまかと待ちわびていた桜、病でもわずらってニ、三日臥せっていたところ、はや外の面(も)の桜は、はや満開であることよといった意味合いで、こちらが江戸中期の俳人・大島蓼太の作とされている。いずれも、子規は、理に落ちた点を嫌っていたようだが、後者の句には、晴れやかな景があるぶん、出来としては、数等倍まさっているように感じられる。

 それはともかく、すでに晩春。前回にとりあげたニ篇の詩の本文を掲げ、行く春をたおやかに惜しみたい。

   甃(いし)のうへ
           三好 達治

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂廂(ひさしひさし)に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ                               『測量船』1930年(昭和5)

   正午 丸ビル風景
           中原中也

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて
あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな
        『在りしの日の歌』1938年(昭和13)

2013-04-06 10:37 | 記事へ

2013年04月02日(火)さくらを詠む

 今年の桜は、はや満開をすぎて、ほちほち散りかけている。

 花びらが風に流れているさまをみるにつけ、おもいおこされるのは、三好達治の詩句である。

  〈あはれはなびらおみなごながれ/あゆまするいしのうえ〉

 いま記憶にあるのは、この断片である。リリックな愁いを含んで、ひとり境内の敷石を歩む着物姿の女、その女に花びらが流れかかっている光景が思い出される。風鐸があって、その斜め向こうに、女は、本殿に向かっている、そんなアングルなのである。

 「いしのうえ」の実際は、たぶん違っているのだろうけれど、いまは確認しないでおきたい。

 いまひとつ、散るさくらについて浮かんでくるのは、中原中也のつぎの詩句である。

〈サイレンだサイレンだ/出てくるは出てくるは/月給取の昼休み/なんのおのれが桜かな桜かな〉

 「丸ビル風景」と題されたこの詩についても、やはり断片しかいまは思い出せないし、どうも本文どおりではないようだ。とはいえ、なんとも懐かしい。

 おもえば、この二つの詩や詩句は、ともに音読というか、朗読というか、声により親しんできたもの。それも、いまから遡ること、30数年以上も前の高校時代にである。閉ざされた自我の懊悩(おうのう)が、救いを求めて手にした詩のことばであった。センチメンタルといえばセンチメンタルであるが、詩句そのものは硬質この上ないものである。

 広島から大阪のいまの職場に転じて、はや20年を閲(けみ)した。この間、1995年と2011年の大震災があり、日常の基盤が根底から覆り、世界の状況も一変してきている。

 苛立ちと諦めに自己を失いかけ、なんとも浮遊しているような日々であるが、ことばの錨をおろし、あるいはことばを木として花を咲かせ、緑を繁らせること、ここにひとつ可能性を模索してみたい。

  〈春愁の雨よ緑の力なれこぞの桜はいかに老ゆらん〉

2013-04-02 10:49 | 記事へ

2013年03月26日(火)不親切の時代

 このごろ、しばしば感ずることは、なぜこんなに不親切な時代になってしまったのかということである。

 電車の窓際の席のところに、飲み終えた缶コーヒーや紙パックのジュースなどがそのまま置かれていたり、ホームやホームのエレベーターに袋やゴミが放置されたりしていても、他人のゴミをかわりに捨てにゆくような人は、あまりいないようである。

 こうした不親切の時代の背景には、インターネット環境におけるデジタルデバイスによる個々人の端末化ということがあるのではないだろうか?あるいは端末化にともなう個人の個人化というか、個人がバラバラ化されて、無防備なままに管理下に置かれている状況があるのではないか。そんなふうにおもわれてならない。

 公共を重んずること、わが利益よりも、より多数の利益が増進されるようふるまうこと、そのことへの意志を大切にしていきたい。

2013-03-26 14:17 | 記事へ

2013年03月09日(土)春の鶏卵汁

 2月27日、「大阪に学ぶ実践的プロジェクト」として、わが料理のお師匠さん(「益広」の代表取締役である大槻勝久さん)に大学に来ていただいて、学生や教職員に和食の基本について実地にご指南たまわった。

 益広さんに市場で買って来ていただいた道南産の天然の真昆布を出汁として、あさりと田辺大根の炊き込みごはんの下拵えから始め、「吹田慈姑(すいたくわい)」をフライパンでごく弱火で焼きにかかった。

 田辺大根は、大学のプランターで種から育成したものを使い、葉のところと成長点のところは、骨を取った煮干しを入れてキンピラにした。あさりは、益広さんに酒蒸しにしてもらったものを炊き込みごはんに使い、少し余らしたものは、分葱(わけぎ)の酢味噌あえにまわした。

 それから、さきほどの昆布だしに鰹節を入れて、一番だしをとり、1(うすくち醤油):30(一番だし)にひとうまみの塩をあわせてすまし汁をつくり、それに片栗粉を溶いてあんにして、そこに溶き卵をちらす。その一方、鶏のモモ肉は、日本酒と塩で、さかしおにし、椀にそのモモ肉を入れ、そのうえにあんの汁をまわしがけ、最後にメレンソウ(ホウレン草の若芽)を載せて、鶏卵汁の出来上がりとなる。簡単ながら、一口すすると、一気にやわらかな春が到来したような、華やかでありながら、こくがあって、実にうれしい気持ちに満たされるのである。ボクは、その味わいに衝撃を受けたので、勝手に「春の鶏卵汁」と命名して、大いに満喫した次第である。

  〈さかしおや春宵蹴って逆上がり〉

2013-03-09 12:47 | 記事へ

2013年03月06日(水)啓蟄を迎えた。

 昨日、テレビのニュースで、二十四節気の「啓蟄」を迎えたことにちなんで、冬じたくのために木に巻かれていたコモがとりはらわれるようすが報じられていた。そうした作業は、啓蟄前後におこなうのがならいとのことだ。

 今日は、春のひざしがあたたかに降りそそいでいる。東大寺二月堂の「修ニ会」(「お松明」、「お水取り」)は来週12日におこなわれる。

 なんだか一斉に春が広がっていくようで、うれしい心持ちがする。

  〈人生の奇数を愛す春港さてもさてもと佇みてをり〉

 もうすぐ53になるのだからというおもいの一方で、53になろうがなるまいがというおもいもあって、実にさまざまである。

 とにもかくにも、自愉適志(みずからたのしみて志にかなう)の境地を求めて、やはりボチボチと前進していきたい。

2013-03-06 12:20 | 記事へ

2013年02月27日(水)難波津に咲くやこの花

 1月終わりの土曜日、「大阪に学ぶ実践的プロジェクト」として、鶴橋駅つるの広場に集合し、コリアタウンをめざして、百済(くだら)の郡(こおり)を歩いた。

 繁華で錯雑とした鶴橋市場は、戦後闇市のたたずまいや風情を残している、全国的にも注目に値する場所だと、ナビゲーターでコリアNGOセンター事務局長の金光敏(キムクヮンミン)さんが解説してくださった。

 十名足らずのわれわれ一行は、金先生にしたがって、鶴橋本通りを抜け、いわゆる疎開道路を南に下って、御幸森神社へと向かった。そこで、百済の郡の歴史を話していただき、境内にある、漢字を伝来したとされる王仁(わに)博士の歌碑に足をとめた。歌碑は、写真のように、万葉仮名と藤原定家の字とハングルで掲示されている。それは、百人一首カルタの始まりを告げる大阪らしい歌である。

  〈難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花〉

 オオサザキノミコト(のちの仁徳天皇)が難波高津宮で即位したときに、その治世の幸(さきわ)いを祈念して王仁(わに)博士によって奉られたと、古今集の仮名序に記されているようだ。

 「今は春べと咲くやこの花」とは、梅のことであるらしく、早春のきらめきが感じられ、寿(ことほ)ぎにふさわしい。古くから、手習の歌としても親しまれていたというのも、むべなるかな。

 中国の先進的な漢字文化や巧みな工芸品等の文物は、多く朝鮮半島を経由して本邦にもたらされたし、室町時代に始まる朝鮮通信使は、明治時代の始めまでつづいた。日本は、地勢的にも歴史的にも、東アジアに位置する国であり、大阪は、いまや「Asian Gateway Osaka」と呼ばれているように、そもそも古くから東アジアにひらかれた日本の国際都市の拠点だったのである。難波津の歌は、そういう意味でも、まことに意義深いものがある。

  〈雨あがり難波(なにわ)弥生の空となり〉

2013-02-27 12:58 | 記事へ|

2013年02月18日(月)タイセイヨクサン会

 経済団体の新年会で、景気浮揚へ期待が熱く語られ、その後、いわゆるアベノミクスが牽引力となって、円安株高へと相場は大きく振れている。いまや、対米ドルで94円前後で推移している。数ヶ月前は、80円くらいだったのに。恐るべき極端な変動である。

 経済は、モノの流れであり、マネーとヒトを動かしていく。テレビ東京のWBSこと、ワールド・ビジネス・サテライトは、経済を基軸に構成されて、世の中がどの方向に動いているのか、何が時代のトレンドなのかを知るには、数少ない特色あるテレビ番組である。飲んで帰りが遅くならなければ、晩ごはんをとりながら、この番組を見ることをならいとしている。「技あり日本の底力」や「トレたま(トレンドたまご)」をはじめ、ランキング形式でみるいまの売れ筋商品の動向など、コンパクトにミニ特集が組まれていて、食パン、インスタントの味噌汁や豆腐など生活に身近な商品がとりあげられ、ちょっとした取材もあり、なかなかに興味深い。

 さても、時代は、急ピッチに経済再生、デフレからの脱却をターゲットに官民あげて突き進んでいるかのように感じられ、それにつけ、思い起こされるのは、「タイセイヨクサン会」ということばである。

 このことばをおもいついても、ボクは、すぐにその漢字があてられず、タイセイは体制か大政か、ヨクサンは翼参か翼産かと迷ってしまった。インターネットで検索してみたら、果たして「大政翼賛会」であった。無知を恥じながらも、一方で、なぜすっとこの漢字が出て来なかったのか、はたと考え込まずにはいられなかった。

 昭和の戦前戦後は、昭和4年生まれの亡き父の歩んできた時代で、ボクの研究テーマは、戦後の国語教育論の展開を明らかにすることでありながら、いわゆる戦中のことにあまりに疎く、歴史的な事実にもとづいて、きちんとした説明ができないでいる。

 あらためて調べてみると、昭和15年2月6日、山形の小学教師の村山俊太郎が、旧治安維持法違反の嫌疑で、特高警察に検挙され、山形師範の後輩であり、綴方教師として全国に名を知られていた国分一太郎も、昭和16年10月12日に東京で検挙され、即日山形警察署に移送された。この間、北海道や秋田をはじめ、全国各地の数百人という小学教師が検挙されるという前代未聞の出来事、いわゆる「綴方教室事件(綴方教師弾圧事件)」、正確には、「生活主義教育運動」ないしは「生活主義綴方教育運動」は、「児童をして社会の欠陥を認識せしめ、かくて現代の社会批判と共に資本主義社会に対する反抗心を唆り以て将来の階級闘争の前線に立つ優秀なる共産主義者を養成せん」とする、「人民戦線戦術」に則る政治運動として取り締まりの対象となった事件が起こったのである。

 ちょうど、日中事変から太平洋戦争へと戦線が拡大し、凄惨な第二次世界大戦が繰り広げられるなか、国内では、挙国一致体制のシンボル的存在として、昭和15年10月12日、大政翼賛会が発足し、昭和17年には、その傘下に、日本文学報国会や大日本産業報国会などの組織があいついで結成され、言論や教育はなお一層厳しく統制された。ときに、その総裁の職にあったのは、東條英機である。

 このご時世、日本国憲法のもと、言論の自由、思想信条の自由は保障されてはいるが、それは所与の自由権ではなく、不断にその自由を守らんとする闘いの中で保障されるものであるとわかっていながら、教育現場における自由権は、瀕死の状況に陥らんとしつつあるように感じられることが少なくない。

 翼賛体制は、体制に従わぬものを攻撃・排斥する論理を内在している。「非国民」のことばは、いまなおさら生々しい響きを帯びて来ているように感じられてならない。ネット時代の今日、ボクらは、むしろ容易にメディアやバイアスのかかった情報によって操作されやすくなっていて、知らず知らずうちに、ヨクサンタイセイを強化するように誘導されているのではあるまいか?

 時代の促しにセンスティブでありながらも、つねにクリティカルな視点を失ってはならない。そのためにも、歴史に学び、来しかた行く末のなかにある〈いま〉に処していかなければならない。

  〈如月の水はぬるみて雨を呼ぶ〉

2013-02-18 10:51 | 記事へ

2013年01月31日(木)『コクリコ坂から』偶感

 先日、スタジオジブリ制作の「コクリコ坂から」を見た。

 旧制高校の気風を色濃く残している横浜の私立学校「港南学園」を舞台にしたアニメーションである。時代設定は、坂本九の「上を向いて歩こう」が流行った1963年初夏だった。翌年は、東京オリンピックの開催。高度経済成長の波が時代を押し上げているなかにあって、古きよき時代の象徴たる「カルチェラタン」(文化部の学生課外活動施設)の建て替えに反対する学生運動がひとつの軸となってピュアな青春のかたちが描かれていた。アニメーションの色合いが、アンリ・マチスの絵画のように本当に美しく輝いていた。

 カルチェラタンは、語義的にはカルチエ(地区、街区)ラタン(ラテン語)で、ラテン語の飛び交う学生街のこと。地名としたは、パリのセーヌ川左岸、ソルボンヌ大学のあるあたりのこと。学生たちのバンカラな熱き血潮が高鳴っている場所なのである。

 ところで、「コクリコ」とは、ヒナゲシのことである。この映画には、明らかに与謝野晶子のかの有名な相聞歌が下敷きになっている。

  〈ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)〉

 映画のなかの「カルチェラタン」には、哲学研究室をはじめ、化学実験室や文藝部や新聞部などがあって、男の巣窟となっていた。ビラや学生新聞は、ガリ板刷り。主人公の女子高生「海(うみ)」が、もうひとりの主人公「俊(シュン)」から、カルチェラタン建て替え反対を訴えるシュンの書いた原稿のガリ切りを頼まれる場面があって、これをきっかけに二人の仲は、深まってゆくという運びになっていた。

 1978年、ボクが大学に入ったころから、印刷は臘原紙からボールペン原紙に変わりつつあったし、コピー機を使うことも広まっていたように思い出される。もともと印刷好きで、旧制高校の気風や気概にあこがれをもっていたボクは、大学3年の終わりころ、先輩の勧めもあって、小林芳規先生を顧問にいただく国語史研究会に入った。当時、研究会では、『三宝絵詞』の語彙索引を作っていて、ボクもカードづくりを手伝った。そのころ、先輩がたは、だれもがガリ切りに長けていて、方Bや方Cの独特の字体、いまで言えば、そのフォントに、ずいぶんと魅力を感じたものである。だから、ボールペン原紙ではなく、あえて臘原紙を使って、ガリ切りをして、卒業論文発表会のレジュメなどを用意したものである。

 天邪鬼(あまのじゃく)と言えば、天邪鬼である。硬派と言えば、硬派である。鉄筆でガリガリと音をたてながら、一文字一文字、根をつめて刻みつけていく作業は、軟弱の徒のなさぬわざである。

 利便性のままに、あまりに安易に流されてはいないか? 時間をかけた手仕事の意味を取り戻さなければ、ボクらは、ただただ浮揚するデラシネとなってしまう。

 意気に感じて、身を挺して生きること、存在の根を大地に張って身を強くすること、そこに活路があることをこの映画は、教えてくれているようにおもう。

  〈コクリコの坂より初夏の旗あおぐ〉
  〈手づからの旗きらめいて夏来たる〉

2013-01-31 14:40 | 記事へ

2013年01月17日(木)近代の知性は実践の知性

 1月3日、白浜の南方熊楠の記念館を訪れた。二回めの来訪である。

 熊楠は、慶応3年(1867)の生まれ。子規や漱石と同年である。熊楠の読書法は筆写することであり、それは、生涯変わらぬ勉強法でもあった。和漢三才図絵、本草綱目をはじめ、太平記や徒然草なども筆写している。熊楠の筆写は、小筆で、墨書き。展示されていた硯は、墨をする場所が溜まりのように深く凹んでいた。

 熊楠の粘菌研究は、つとに世界的にも知られていて、昭和天皇にご進講の栄誉にも預かっている。1度めにこの記念館に来たとき、強く印象に残ったものは、海外、遠くアマゾンの奥地にまで菌類採集のために出かけたときに使われたというトランクケースだった。舶来品とおぼしき、高価な感じの大きなケースだった。それを見たとき、こんな大きなものを携えて出かけたのかとおもい、採集への情熱、飽くなき好奇心を身近に感じた次第であった。

 今回は、記念館に備え付けの熊楠紹介のビデオを視聴し、展示された筆写の現物をひとつひとつ見てまわり、熊楠の博覧強記について、あらためて驚かされ、と同時に、近代の大いなる知性は、筆写という手を動かす行為の実践性において誕生したのだと気づかされた。同年の子規も、とにかく書いて書いて、書き続けた。前人未到の俳句分類の仕事は、病床にあっても続けられたが、そのために筆で書き記したかさは、いかばかりであったか。

 近代の知性は、書字という単純なる行為のその実践性において育まれ、開花したのだと、今回の訪問ではじめておもいを致したのであった。

  〈初春やいろはにほへとつれづれと〉

2013-01-17 10:01 | 記事へ

2013年01月01日(火)あらたしき年のはじめに

 あらたしき年のはじめを迎えた。とにもかくにも、平安を深く祈念せずにはいられない。

 当たり前のことなのだが、冬至をすぎて、いかばかりか日が長くなったように実感せられて、こころ浮き立つものがある。たしかに陽の気は日増しに勢いを増している。

 いつも冬至には、一陽来復のことばが想起せされ、おもいを新たにするものであるが、新年を迎えるにあたり、ゆく年くる年のはざかいを強く意識し、新年の到来とともに、自分自身が一新されたような心持ちになる。虚構といえば虚構なのではあるが、うれしいものである。

 あらためて儀礼というものの深い意味を考えてみたい。

  〈吟醸の水を召しませ年の神〉

2013-01-01 09:14 | 記事へ

2012年12月26日(水)師走の道頓堀をゆく

 師走の始まりの土曜日、午後に、職場のレクで、道頓堀を東の端から西の端まで歩いた。ナビゲーターは、地理の正木先生と山近先生。上本町六丁目(通称、上六)の近鉄大阪線の始発改札口に集合し、そこから、誓願寺の仙晧西鶴の墓所を訪ね、近松門左衛門の墓所に立ち寄りながら、谷9の交差点に近い高津神社、通称高津さんに至った。

 一説に、高津さんの梅の橋は、かつて梅川に架かっていて、その川が道頓堀川の最上流に位置していたとのいわれがあり、高津さんが今回の道頓堀探訪の始発となった次第である。

 高津さんは、落語の「高津の富」や「崇徳院」ゆかりの場所。秀吉の大坂城築城に際し、現在の地に移設されたとのこと。仁徳天皇国見ゆかりの場所でもあり、江戸時代には大坂随一の眺望を誇り、大いに賑わっていたらしい。神社のまわりには、お茶屋さんやらなにやら店がたくさん並び、「いもりの黒焼き」を売る店もあったという。

 いまや、高津さんのまわりには、ビルやマンションが建ち並び、どうにも殺風景なたたずまいとなってしまった。時代の趨勢といえ、大坂の町の風情が失われたことは、やはりやるせないものがある。

 ともあれ、われわれ一行は、めいめいに相合坂や縁切坂をくだり、東横堀川の南端、すなわち道頓堀川の東端から、両川口のJR大正駅をめざして歩み出した。

 かに道楽やたこ梅の話をしたり、鯨料理の専門店やこだわりの出雲そばの店の看板を目にしてはおのがじしその見聞を披瀝したりしながら、道頓堀開削の功労者である安井(成安)道頓・道卜を顕彰する石碑まで歩みを進めた。石碑は、日本橋のところにあって、すぐそこから西へと繁華な道頓堀の街並みが続いていた。石碑では、正木先生から道頓堀開削のいきさつや道頓堀裁判のお話をお聞きした。開削の完了は、1615年。石碑は、大正4年の開削三百年を記念して建立され、漢文の碑文も刻まれている。

 われわれ一行は、おもいおもいに歩きながら、休憩地点の湊町パーキングをめざし、FM大阪のスタジオ入口に近い喫茶店でケーキセットを食しながら、しばし憩いのひとときを楽しんだ。

 それから「なんばHatch」を囲むように整備された湊町リバープレイスにて、深里橋(ふかりばし)のことや路面電車が通じていたころの街並みなど往時のことを正木先生から解説していただき、道頓堀川にかかる新しい橋を渡って、キャナルテラス沿いの道を川沿いに西へと向かった。途中、かつて赤煉瓦の大阪変電所の跡に立ち止まり、関西が関東と違って、60ヘルツである由来を正木先生から注解していただき、しだいに暮れていくなかを一路、「安政大津波」の碑へと向かった。

 安治川と木津川の川口に位置する大正橋のたもとに、安政2年(1855)に建立された碑には、嘉永7年(1854)11月4日(旧暦)と翌5日に大地震が発生し、5日には山をなす大津波が大坂の繁華街を襲い、あまたの橋は崩落し、甚大な被害が生じたこと、とりわけ道頓堀川の大黒橋では大津波に引きずられた大船が横倒しになって川を塞き止め、つぎつぎに打ち上げられてきた小舟を下敷きにしてしまったこと、またそれにともなう被害が民家や人々に広がったことが、後世への警鐘として碑に記されている。

 2011年3月11日の大震災のありさまが生々しくも思い出されてならず、大自然のすさまじきパワーへの大いなる畏怖と人の世の無常に対する深い悲しみに、居住まいを正して、しばらく石碑に合掌した次第である。

  〈震災の碑(いしぶみ)かなしこの夕べ道頓堀を歩み来たれば〉

 暮れゆく浪速の空の寒さに身を縮めながら、われわれ一行は、終点のJR大正駅にたどり着き、打ち上げの沖縄料理の居酒屋へと向かった。

  〈イチャリバで師走の夢をいざ語らん〉

2012-12-26 11:32 | 記事へ

2012年12月13日(木)大阪国語教育実践の会の研究会

 年の瀬を迎えました。

 下記の日程で、小さな研究会を開催します。ご都合がつきましたら、お越しいただけると幸いです。

○12月16日(日)
 午後1時30分~午後5時。
○場所 大阪教育大学天王寺キャンパス 416教室
○テーマ 教師のホスピタリティをいかす〈ことばの教育〉
      ―子どもへの〈もてなし〉ということ―

・「読むこと」の授業に活かしたい教師のホスピタリティ

   大阪教育大学大学院・実践学校教育専攻一年次 長崎 励向

・子どものなかに自然をみつめる〈眼〉を育てる校内フォト新聞 の試み
  ―2010年度からの三年間の実践にもとづいて―
  増田 俊昭(東大阪市立荒川小学校・つづりかた教育研究会)

*下記に案内があります。

http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~toshiya/2010/jdc_001.htm

あわただしいなかですが、どうぞ、よろしくお願いします。

2012-12-13 15:45 | 記事へ

2012年11月24日(土)道風の蛙

 道風の蛙ならねど、三つばかりなる女のわらし子の、吊り革めがけて、ひとたび、ふたたびとジャンプせしこと、興ありて記しおく。

 こは、大阪環状線、車中にての朝の出来事なりき。

 道風の蛙の絵と道風のことにつきては、「ケペル先生のブログ」に「書聖小野道風出生の謎/2009年12月 6日 (日)」の記事あり。

2012-11-24 10:00 | 記事へ

2012年11月15日(木)柿照葉

 時雨は、降りみ降らずみ、ちょっと降っては、晴れとなり、晴れたかとおもいきや、また雨となる、そんな天候のこと。初冬の風情である。

 いつも利用しているバス停のそばには、クヌギの木や桜の木のほかにも、柿の木もあって、もみじのときを迎え、やがて落ち葉となってゆく。街路樹のケヤキの木は、すでに落ち葉すること、しきりである。

 国会の解散が目前であり、いやがうえにも、忙しなさがつのる。初冬とは、こんな季節であったのかとは、最近の感慨である。

 そんななか、坪内稔典先生やわが料理のお師匠さんのうながしもあって、柿の葉に注目している。料理のお師匠さん曰く、もみじの色合いの美しさは、柿の葉にきわまれりとのこと。稔典先生は、柿の木に日本の原風景を見ている。

 ちょっと立ち止まって、佇むこと、センチメンタルに浸ることも、また大切なのだ。テレビを消したり、携帯電話やタブレットをひらかないで、目とこころを養いたいものだ。

  〈柿照葉むかし男の恋の文〉

2012-11-15 22:34 | 記事へ |

2012年11月12日(月)今日を引く

 先月の下旬、晩秋の雨のなか、俳句の吟行で大阪天満宮に出かけた。そこで、檀林派の西山宗因がリーダーとして活躍した連歌所について、グッズ販売所のお嬢さんについて尋ねた。天満宮には句碑があるばかりで、ゆかりの建物はないとのことだった。師匠の坪内稔典先生がおみくじを引かれたので、ついでながら、お相伴した。

 おみくじは、二百円。先生は14番で末吉、ボクは24番で凶を引いた。

 凶なるおみくじには、冒頭「待つ人のおそくてふけゆくがごとし」とあり、「他人の偽りの言葉により自分の誠心も通じないが、今は、我慢して時節を待つのがよい。」と戒めのことばが記されている。子細には、○探物 見つからない ○家庭 夫婦親子仲良くしなさい と、なかなか手厳しい。が、しかし、○学業 信念を持って臨めば結果良し ○恋愛 神様を信仰し誠心に祈りなさい と、励ましのことばが身にしみる。ちなみに、吉方は「西北の方」とあり、縁談については「良縁を授かりますが今は待て」とあって、ことにおいて待つことの大切さを諭された。

 凶を引くことは、今日を引くことでもある。今日という餅をつくことは、今日という日を杵で打ち付け、柔らかく粘りあるものとすることであり、それは打水の助けをかりてしっかと手繰り寄せられ、またそれを打ち付けるのである。それはまた、畑を耕すことのように、滋味のある土壌をつくりなすことでもある。

 そんなことを考えていた日は、すっかり昔のことになってしまったように感じられる。この間、米国の大統領選でオバマ氏が再選を果たし、ボクは、学会で富山大学に出向いたり、先週は大学の仕事で、皇居に近い竹橋方面に出かけた。そして、いまは、すでに初冬の風が吹いている。もみじの葉は色を深め、落葉もしきりである。

 あと、ひと月もすれば、いよいよ年の瀬である。浮世は夢の如しとは、言い得たものである。

 1日1日、しっかとその日その日を手繰り寄せ、引き寄せながら生きていきたい。

  〈哲学は冬のあしたの空にあり〉

2012-11-12 10:58 | 記事へ |

2012年10月22日(月)オリオン座を詠む

 オリオンと言えば、まず思い出すのは、オリオン座とオリオンビール。

 オリオンビールは、戦後、沖縄・名護の地場産業として誕生し、地ビールの域をこえ、いまや全国区ブランドともなっている。ボクの最初の出会いは、1988年秋、沖縄の地であった。

 一方、オリオン座は、冬の星座として親しまれている。オリオン座の左上のベテルギウスとおおいぬ座のシリウスとこいぬ座のα星であるプロキオンとで形づくられるのが冬の大三角である。Wikipediaによると、オリオン座は、棍棒をもった右手を高く差し上げた猟師をかたどっていて、その猟師オリオンは、ポセイドンの子で、荒らくれ者の大男。大地の神ガイアのために、蠍の毒で命を落とし、蠍と同じく星になったということだ。だからというよりも、対蹠的な場所に位置するがゆえに二つの星座を同じ空にみることは、むずかしい。

 それにつけ、宮澤賢治作詞・作曲の「星めぐりの歌」が思い出されるところだが、いまはオリオン座を詠んだ俳句のことにポイントをおいて考えてみたい。

  〈オリオン座すきな野菜はオニオンだ〉
  〈臨海のここオリオンの家族たち〉

 上は、小学6年生の俳句。下は、自作。

 夜間勤務の都合で、最終バスに乗り、最寄りのバス停に着くのは、午後11時20分ころ。バス停に降り立つと、冬になると、左手斜めに、オリオン座が大きく出張っている。それを目にしながら、いつかオリオン座で一句、これと言うのを作ってみたいとおもうようになった。それで、毎年頭をひねって句作に励むのだが、満足のいく作品ができないでいる。

〈雪だるま星のおしやべりペチヤクチヤと(松本たかし)〉

 こんなお洒落な句をと念じるのだが、その趣向は、たいていは片恋で、意表をつく一句が思い浮かばない。

  〈手負い熊鼻の先なりオリオン座〉
  〈手を引かれ無言の愛をオリオン座〉
  〈牢獄の格子ななめにオリオン座〉
  〈小夜ふけて中山越えのオリオン座〉
  〈オリオン座冬の標と移りたる〉
  〈あの坂を越ゆれば海のオリオン座〉

 やっと、ニ、三日前から、金木犀が匂い立つようになった。天地の間に晩秋を感じつつ、冬のしたくを始めたい。

  〈ぬかどこや息ひそやかにオリオン座〉

2012-10-22 12:53 | 記事へ |

2012年10月12日(金)秋山のこと

 10月2日、お茶の間で人気の流通ジャーナリストの金子哲雄氏が41歳で他界した。肺カロチノイドなる病に冒されたことによると、朝方のワイドショーで報道があった。ちょっと舌足らずで軽妙な口調は親しみやすく、キャラの濃い存在感は傑出していた。ハリセンボンの角野卓三似の近藤春菜さんによる金子哲雄氏のモノマネというより形態模写は圧巻で、テレビを見ながらそれこそ腹を抱えて笑ったことが思い出される。日本テレビ夕方の関西情報番組「ten」で、いま何がどこで買い時かを解説されていた金子さんは、関西のキャラにピッタリで、いつも楽しく拝見していた。行動する生活派の金子さんは、徹底した現場主義でありながら、朗らかな理論家でもあった。

 その早すぎる死が、他人事ながら、惜しまれてならない。

 前に、このブログで取り上げたが、名優・緒方拳の訃報に接したのは、10月の始め、金木犀が匂いたつときであった。そして、「北の国から」で、田中邦衛扮する五郎のいとこ役をつとめた大滝秀治さんが同じく10月2日に逝去した。享年89歳、最後まで役者として生を全うしたと報じられた。その圧倒的な存在感に魅せられていたひとりとして、ボクはその死をやはり深く深く悼まずにはいられない。

 柿本人麻呂に、こんな歌がある。亡き妻への挽歌である。

  〈秋山に黄葉(もみぢ)を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも〉

 これは、「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟して作る歌ニ首併せて短歌」と詞書がある長歌に続く短歌である。長歌の詩句では、妻の訃報に接したときのことをつぎのように歌っている。

  〈渡る日の暮れゆくがごと/照る月の雲隠るごと/沖つ藻の靡きし妹は/黄葉(もみぢば)の/過ぎて去(い)にきと/玉づさの使ひの言えば〉

 秋山は、もみぢした葉が降りゆくところ、すなわち死の気配というか、亡き魂のたどり着く場所という感じである。

 死期が迫っていることを意識してか、大津皇子が伊勢斎宮の姉のもとを訪ね、翌朝人目につかぬように旅立った。その弟大津を見送った姉の大伯皇女は、つぎのように歌っている。

  〈ふたり行けど行き過ぎたがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ〉

 秋山とは、そんな畏怖される場所なのである。実りの秋は、裏を返せば、終わりゆく間際に連続する時節でもある。

 いま、ふとチャイコフスキーの交響曲「悲愴」の最終楽章のあの哀切でならない曲調が思い出される。晩秋とは、かくのごとく行くものと思ってしまうのである。

 ともあれ、晩秋に黄泉路に旅立つことの「あはれ」に深くおもいをいたしつつ、金子さん、大滝さんの無事の行脚を祈念し、おのが人生のかたちを確かにすべく精進していかなければならない。

  〈秋の夜や秘すれば花の光あり〉

 合掌。

2012-10-12 14:35 | 記事へ |

2012年10月02日(火)定家卿のこと

 大学3年のことだったと記憶している。昭和の本居宣長と勝手に尊称していた碩学・小林芳規先生の国語史の授業で、「土左日記」が取り上げられた。テキストは、青谿書屋本と呼ばれる写本で、それは貫之自筆本の臨模本と推定されていた。その影印本は新典社から発行されていた。また、参考に、定家自筆本の「土左日記」影印が提示された。定家卿との出会いは、ここに始まったといえそうだ。

 定家の書体は、一度目にするだけで記憶してしまうほど、ユニークなもの。定家流というらしい。定家は、『源氏物語』をはじめ、『古今集』や『伊勢物語』『更級日記』なども写つしている。平安の王朝文学を後世に残すべく夜に日を継いで写本の作業に没頭した。その筆致から定家卿の作業の疲れが出た箇所も指摘できるようだ。その甲斐あって、日本古典文学の礎が据えられ、ボクらは日本文化の大いなる幸いを享受できるのだ。定家卿の編んだ「百人一首」は、その典型である。

 ところで、元号にして応保2年、西暦では1162年に生まれ、仁治2年(1241)に没した定家卿は、京の都にあって、方丈記に記されている天変地異や大火や飢饉を経験し、源平の争乱、鎌倉幕府の誕生、後鳥羽上皇の承久の変にも際会した。いわゆる末法の世にあって、幾多の革命を肌身に近く感じながら、歌道なるものの確立に生涯を捧げた人物である。ちなみに鴨長明は、定家より7歳年上ということだ。

 「紅旗征戎、吾が事に非らず」とは、定家卿の日記「明月記」に記されていたという。堀田善衛の『定家明月記私抄』(新潮社)によると、定家19歳、治承四年のことで、日付は記されていないとのこと。書き下しの本文にしたがうと、以下のように記されているらしい。

  世上乱逆追討耳ニ満ツトイエドモ、之ヲ注セズ。紅旗征戎、吾ガ事ニ非ズ。

 先般、連日にわたって報道された中国国内の動きにも見られるように、閉塞的な政治状況のなか、経済の行き詰まり感が顕著になっている今日、暴力や破壊への負のポテンシャルが、いよよ増大し、マグマの噴火のように大爆発がいつ起きてもおかしくないような事態へと突入しているように感ぜられてならない。小泉内閣時代、新自由主義が喧伝され、勝ち組負け組があらわとなり、自己責任論が席巻していたとき、負のポテンシャルが高まっているように感じたが、そのエネルギーは、グローバル経済のなかで、そのレベルは徐々に上昇しながら、今日に至っているのではないか。もちろん、ボクの勝手な思い込みなのかもしれないが、いかにリスクマネージメントするか、そのことが喫緊の課題となっている。1995年1月17日の阪神淡路大震災、2011年3月11日の東日本大震災、時代は、あまりにも烈しく揺れている。まさに、現代社会は、地殻変動のただなかにある。

 そのなかで、いかに我(われ)のことばを確立し、磨きあげていくか?あるいは、自己の技を芸として普遍化していくか?

 堀田善衛のさきの著書を読み継ぎながら、思索をめぐらしている。

 おそらく、古典というものに深く埋頭し、それとの格闘なくしては、かないがたいのではないかとおもっている。

 定家卿の歩みをさらに掘り下げて学んでみたい。

  〈秋や秋見上ぐる月の底深き〉

2012-10-02 09:32 | 記事へ |

2012年09月28日(金)彼岸を過ぎて

 画然と秋が深まってきた。夕方6時ともなると、あたりはすっかり暗く、朝夕は、長袖を着用するようになった。庭のハナミズキの葉は色づき、実も赤みを帯びてきたし、バス停そばのクヌギの木から、たくさんのドングリが落ちだしている。

 彼岸を過ぎて、季節は、確かに秋半ばのよそおいである。今月のつごもりは、旧暦の8月15日。仲秋の名月、観月の日である。ところによっては、芋名月とも言うようだ。

 そういえば、先日来の月は、だんだんに丸みを増して、すこぶる美しい。オリオン座も南東のかたに位置を移している。

 秋半ばは、なかば冬への兆しをはらんでいる。

 秋刀魚に、栗ごはんに、まったけの吸い物。冷やおろしが出回るようになって、こころが踊る。しかし、「悲秋」や「秋思」のことばのとおり、やはり哀しみの感情が底流を占めていることは否み難い。

 大学一年の教養の授業で、鈴木修次先生から杜甫の詩を学んだ。先生は、杜詩を中国語で音読してくださった。音吐朗々、その響きは美しく、なかでも「登高」は印象に深い。その詩をつぎに引いてみる。訓読は私に付している。

  風急天高猿嘯哀
  (風急に天高く猿嘯哀し)
  渚清沙白鳥飛廻
  (渚清らに沙白く鳥飛廻せり)
  無辺落木蕭蕭下
  (無辺の落木は蕭蕭として下り)
  不尽長江滾滾来
  (不尽の長江は滾滾として来たる)
  万里悲秋常作客
  (万里悲秋常に客と作り)
  百年多病獨登台
  (百年多病獨り台に登る)
  艱難苦恨繁霜鬢
  (艱難苦だ恨む繁霜の鬢)
  潦倒新停濁酒杯
  (潦倒新たに停む濁酒の杯)

 「登高」七律は、杜詩の傑作の一つに数えられている。「登高」は年中行事で、旧暦九月九日すなわち重陽の日に、家族や近親者とともに、近隣の小高い山に登り、菊を愛でたり、菊酒を飲んだりしながら、憩いの時間を過ごすことであるようだ。日本の花見、琉球の清明節とおもえばよいであろうか?

 杜甫は、旅の身であり、不甲斐なきまま年をとっている孤独な自分を嘆かずにはいられない。頷聯の情景は、天地の果てしなさとうつりゆく時間の苛烈なまでの勢いを描出し、そのなかに年老いてゆく杜甫の孤独はあまりに痛々しい。

 鈴木先生は、「こんこん」は、「ぐわんぐわん」に近い感じの音の響きだとおっしゃり、朗読してくださった。「無辺の落木」と「不尽の長江」、垂直と水平の対句。降りゆくものと流れ来たるもの。ともに自然の景物で、一瞬たりともとどまることなく、落ちては消え去る。陰の気の増す晩秋とは、そんなにも凄き時節なのだ。「蕭蕭」と「滾滾」は、ともに畳語で、それこそ読者は、その韻律に畳み掛けられるように、横溢する晩秋の悲しみにうちひしがれる。風の音、断腸の哀しみを誘引する猿の鳴き声は、いよよ哀切であり、ぽつねんと川辺に佇み、あるいはあたりを飛び廻る渡り鳥たちは、孤立無援の姿をあらわにしている。

 杜甫の人生に重ねられた晩秋の季節は、かくまでに哀しく、痛ましいものであることをあらためて感ぜずにはいられない。

 とはいえ、秋は、灯火のもとに書をひもとくときであり、来たるべき冬に向けて、食を盛んにすべきときでもある。その一方で、リルケの詩のように哲学に志す季節でもあるのだ。

 中村草田男の葡萄の句に倣って一句。

  〈まるまると葡萄の○を喰らいけり〉

 そういえば、2年前のいまごろ、山形の高畠町の葡萄直販所でゴルビーやロザリオビヤンコを食した。その味が、なぜか無性に懐かしくなった。わが身、流離のゆえであろうか。

2012-09-28 10:09 | 記事へ |

2012年09月17日(月)書字への意志

 キーボードを打つことに馴れてしまって、あるいはローマ字入力が当たり前になってしまって、手づからの文字を書かなくなってしまった。唯一、ある程度日常的に文字を書いているのは手帳である。予定を書き込んだり、その日にしたことをつづったり、ときにはふと思いついた俳句を書き付けたりしている。たいていは、横書きである。

 スマホ時代の大波が押し寄せてくるなか、打つというか押すということから、タッチすることへと変わっている。ユニバーサルデザインの進化ということでもある。また、音声認識機能を利用した検索サービスも精緻なものになってきた。

 そもそも、たいていの文字は、手で書かれたり、描かれたりするものである。とりわけ、ひらがなは、草書にもとづく字体で、運筆の勢いやリズムと不可分である。だから、そのすぐれた習得は、実は、はなはだ容易ならざることなのであり、日常の書字を実践のなかで修練、錬磨する必要がある。

 かつて、筆という書記用具の息の長さについて考えたことがある。筆は、すでに千年を越えて、いまも使われている。三筆や三蹟というくらいだから、実際に当時の筆を目にしたことはないが、たぶん確かだろう。筆は、軸が竹などの植物、墨をしませる芯の部分が動物の体毛からなる。なかなかにシンプルで、エコな筆記用具である。鉛筆は、鉱物を加工した芯が木で包まれている。これは、これで自然のものが使われている。ただ、細長い芯づくりには、化学の知識と工場施設が必要である。広島の熊野の筆は、お化粧の世界では、世界のセレブたちに愛用されていると聞いたことがある。

 それはさておき、字を書いてみることは、手習いともいう。『源氏物語』に「手習」の名をもつ帖もあり、写経は、いまも大事な修行である。

 書字への意志は、歴史や精神文化への参入の意志であり、その実践は、たとえささやかなりとも、生活世界における求道の一体験と考えてみたい。

 と、ついつい悪い癖で意気込んでしまった。とにもかくにも、ことあるごとに書字への意志を忘れまい。

  〈秋彼岸大きな○(まる)を描きました〉

 15年以上前に作せし一句。

  〈子が生まれ子の名前書く父の秋〉

 こちらは、最近つくった偶感の一句。

2012-09-17 16:59 | 記事へ |

2012年09月13日(木)足の組み方その5

 駅前のテラスのようになったところにしつらえられた横並びのベンチに、二組の若いカップルがいて楽しそうに談笑している。なぜか、四人ともに、足を組んでいて、右足が上になっている。外目には、ちょっと異様な光景である。

 だんだん覗き趣味的になってきた感がないでもないので、このあたりで、足の組み方の考現学も終わりにしたい。

 目のつけどころを決めて現実に対処していると、ありふれた現実が異化され、ちょっと現実離れした感覚になる。これが、足の組み方考現学による、ボクなりのちょっとした発見である。

 そういえば、いつも普通に書いている漢字のかたちというかそのたたずまいが、不可思議に感じられて、その漢字が妙にウソくさく思えて、ひどく当惑したことが幾度もある。

 今度は、モノや現象の内側から事実を明らかにする「実想観入」の修行を試みてみたい。

2012-09-13 08:35 | 記事へ |

2012年09月09日(日)足の組み方その4

 今日のお昼前の電車では、若いカップルは、ともに足を組んでいて、右足が上になって、おそろいだ。

 ボクも、足を組みたい気分だが、足を組むのは、坐禅くらいにしておこう。

 「手を組む」「組紐」「組合」「組み手」「組体操」など、「組むこと」につながることばも多い。また「組むこと」は、「汲むこと」「酌むこと」などと通音している。にほんごとしての「組むこと」も、また追求しがいがありそうだ。

 ちなみに、目の前のカップルの女性は、途中から左上組に変化した。

2012-09-09 11:59 | 記事へ |

2012年09月07日(金)秋の風情

 朝夕の空気は、秋の風情となった。つくつくぼうしの鳴きおさめ。しかすがに、あわれを感ぜずにはいられない。

 暑さ寒さも彼岸までとは、よくいったもので、時節は、明らかに推移している。イチジク(無花果)も、色づいて、八百屋の店先に並ぶようになった。

 今朝は、萩の花を見つけた。おはぎのときである。

  〈そこここに秋の便りは来たりけり〉

2012-09-07 09:14 | 記事へ |

2012年09月06日(木)下弦の月

 今日の天気は、昨日の天気予報とは違って、さっとした秋の雨にはならず、蒸し暑かった。

 夜11時、斜め30度くらいのところに半分の月が美しくやすらいでいる。

 先日の夜半、近所のバス停近くをウリボウ三匹をしたがえてかっかとイノシシが駆けて行った。

 やはり、無事に家に帰りたい。

2012-09-06 23:22 | 記事へ |

足の組み方その3

 お昼前の電車では左足が上の乗客と、右足を上にした乗客とほぼ同数という具合であった。右に彼女を座らせた男性は、左足が上であった。

 聞き足との関係については、さらに追求してみたいが、シチュエーションのことも考慮する必要がありそうだ。

 ひきつづき、折々に注視してみよう。

 ちなみに、いま目の前のバスの乗客は、右足が上の組み方である。

2012-09-06 23:13 | 記事へ |

2012年09月04日(火)足の組み方その2

 電車では左足が上の乗客、バスでは右足を上にして乗客がふたり。

 今日、気がついた範囲では、右足が優勢である。聞き足と関係があるのだろうか?

 さらに探索してみたい。

2012-09-04 22:51 | 記事へ |
2012年09月03日(月)
足の組み方
 ボクは、いまバスのなかで足を組んで座っている。右足が上である。かたや、ひだり斜め前の乗客は、左足を上にして足を組んでいる。

 なにか、わけがあるのだろうか?

 ちょっと探索してみたい問題である。

2012-09-03 23:19 | 記事へ |

神様のこと

 処暑を過ぎ、朝夕の景色は、暦どおり秋の風情となってきた。秋は深まるものというが、日の暮れも、ずいぶん早くなってきた感じだ。

 先月の8月24日は、旧暦の七月七日。「峨眉山月半輪の秋」ではないが、前日につづいて美しい上弦の月夜であった。

  〈秋の空友遠方より来るあり〉

 その翌朝の感慨である。一念発起、ぬか床をつくることに決めた。

 さて、このブログ、時節の推移にセンシティブになって、一日一話の題材を見つけては、それを随筆ふうに書き出し、自分のことばを呼びさましながら、みんなの経験の世界をゆたかにすることに、そのねらいがある。

 先月下旬のことであるが、ある小学校の研修会で、その学校の教員を五年生にみたてて、杉みき子の「わらぐつのなかの神様」の一時間めの授業をした。テーマは、「神様」のこととした。神様は、どこにいて、どんなふうに存在しているのか、そのことを軸に、自分が思い描いている神様のことを発言してもらい、「わらぐつのなかの神様」全文をボクが音読した。そのあと、「わらぐつのなかの神様」は、どんな神様であるか、一文(ワンセンテンス)でひとりずつに答えていただいた。

 この授業に際しては、ネンテン先生のつぎの一句を参考にした。

  〈ちょこと来て鎖骨に座る秋の神〉

 この秋の神様は、堤防に腰掛けるように、足を投げてぶらぶらさせている。妖精(フェアリー)のようにとても小さくて華奢な、ビリケンさんのような顔をした神様がボクには想像される。どうも田の神のようにおもわれる。この神様は、やさしく微笑みながら、今年の実りを見守っているようだ。一方、少し前に流行った「トイレの神様」は、「それはそれは美しい女神さま」と歌われていた。ボクらは、古代ギリシア彫刻のように神様を人間になぞらえたり、風神雷神図屏風のように異形のものを思い描いたりするが、山や木が御神体であるように、霊気のような存在が神様でもある。八百万の神になると、それはそれはたいへんなことである。

 神様は「化身」する存在である。何かに姿を変えて、あるいは姿を借りてボクらの前に顕在する。ふとおもいついたその考えは、魅力的な気がする。いま何気なく見ているもの、関わりをもっているものには、ひょっとしたらこの携帯にも化身した神様がいますかも知れないのだ。いつもそこにいるのではなく、なにかのとき、その神様は何か大切なことを知らせたいときに、訪れ、にわかにして立ち去っていく。降臨というよりは、むしろ飛来というか、憑依というか来臨という感じだ。

  〈秋の空雲は羊や鯖となる〉

2012-09-03 23:14 | 記事へ |

2012年08月11日(土)夏の大三角をもとめて

  〈真砂(まさご)なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり〉

 『竹の里歌』所収の正岡子規の短歌である。

 先週の8月3日の金曜日は、旧暦の六月十六日。十六夜の月が、皎皎と輝いていた。東シナ海の台風の影響かとおもわれるが、すでに秋の風情であった。

  〈台風が夏から秋へきりかえた〉

 これは、2003年10月8日、貝塚市の小学六年生との句会の授業で出会った子どもの俳句。なかなかにかっこいい。同じ授業で、秋の句として提出されたつぎの一句も、忘れがたい。

  〈夜空見て星が集まり天の川〉

 下読みのときには、ごく平凡な句、月並の句としてやりすごしていた。ところが、案に相違して、この句は子どもたちから高い支持を得て一番人気となった。選んだ子どもたちから選句の理由を聞いているうちに、夜空を見ていたら、あそこにもここにも星が出ている。だから、おもしろくなってしばらくみていると、幽かに光る星も見分けがつくようになって、天の川を認めることができるようになった。こんな経緯を述べた句というより、星が夜空を見ている自分のためにだんだんに集まってくれて、天の川が見事に現出したということ、そのことに対する感動というか、感嘆する気持ちや天の川を発見した初々しい眼差しが、そのまま句となって、清烈で濃密な時間の流れが見事に形象化されている。実に名句である。

 子ども俳句の味わいは、子どもの波長と同期している。竹のことは竹に聞けではないが、子ども俳句のことは子どもに聞くのが一番である。

 それはともかく、1993年の春、広島から大阪の地に越して来て、住まいとしたのは枚方市の禁野本町の合同宿舎であった。通勤の際には、天野川にかかる天津橋を渡っていた。枚方は七夕伝説の地であり、天津橋のもうひとつ河口側には「かささぎ橋」がある。また、天津橋の欄干の上手側と下手側には、向かい合うように、彦星と織姫の意匠が施され、夜になると、ネオンサインのようにふたつの意匠は光に照らしだされる。そのモニュメントをモチーフとしたテレホンカードを、いまも記念に大事にもっているが、枚方の七夕伝説を題材に、小学4年の話し合いのための国語教材を執筆したことがある。結局、地域性が強すぎることが難点で、その原稿は没となったが、七夕は、新暦ではなく、旧暦の七月七日、すなわち七日の月が午後10時ころに沈む日、新暦にすると、今年の場合であれば、8月23日あたりが、星合いの空をながめる日である。その日には、裁縫がうまくなるようにお供えをしたり、願いを記した短冊を笹の葉に掛けたりする。

 ところで、七月七日の夜中といえば、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋をテーマとした白楽天の「長恨歌」に、こんな一節がある。

  七月七日長生殿
   七月七日長生殿
  夜半無人私語時
   夜半、人なく、ひそかに語らふ時
  在地願為連理枝
   地にありては、願はくは連理の枝となり
  在天願為比翼鳥
   天に在りては、願はくは比翼の鳥とならんことを

 ときに、玄宗皇帝が、長安の宮廷を脱し蜀の地に逃れたとき、楊貴妃は勅命により死出の道についた。玄宗は悲嘆に暮れ、その悲しみは深まるばかり。政情が落ち着きを取り戻し、玄宗は、荒廃した長安に戻ってきた。かつて楊貴妃と愛の時を謳歌した宮廷にいても、彼女の姿はそこになく、またそれゆえに、なおさら玄宗の心は千々に乱れ、幽明境を異にした別離に深い悲しみと恨みは、尽きることがない。

 そうだ、七夕の夜には、長生殿で、私たちふたりだけでひそかに堅く堅く契りあったではないか。ふたりの魂魄がふたたび地上に生を得るならば、二本の木は幹や枝がひとつに重なり合い、ひとつの木となって同じ木目の枝を伸ばし幹を太くするのだ。よしや天上に生を得るならば、かわし合う翼がひとつ眼もそれぞれにひとつの鳥となって雌雄ひとつになって飛ぶという比翼の鳥になって、永遠に一緒にいつづけるのだと。なのに、蓬莱山に住むお前とわたしは、なぜにかくもはるかに別れ別れになって、再会のときを許されることがないのか。

 この恨みは、未来永劫につづくことよ。そんなふうに、白楽天は、詩を閉じている。

 もうひとつ七夕といえば、やはり宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」に言及しないわけにはいかない。ケンタウルス祭である星祭りの夜、ジョバンニは、銀河ステーションから銀河鉄道に乗り込み、カムパネルラと一緒に銀河のかなた天の川を旅をする。ジョバンニとカムパネルラの二人は、鳥捕りのおやじさんや、タイタニック号の沈没で海底へと吸い込まれていった姉弟とその家庭教師とも乗り合わせながら、星めぐりの旅は南をめざす。サウザンクロスあたりまで来たとき、僕たちはずっとずっと一緒だねとジョバンニが告げたあと、窓の外を見ていて、ふとふりかえると、カムパネルラの姿が見えなくなっていた。そのとき、ジョバンニは目覚め、高原の草原で眠り込んでいたことに気づき、もと来た町のほうへと引き返す。ザネリたちと烏うりのあかりを川に流しにいっていたカムパネルラが川にはまってしまい、一向に行方が知れないと聞き及び、急いで現場へと駆け付けるが、やはりカムパネルラの行方は不明のままである。そんな話が、「銀河鉄道の夜」のあらすじである。

 賢治の描写は、自然科学者の正確さと詩人の洞察力と幻視の力があいまって、清らかで鋭く、あでやかに舞踏する。比類のない美しさである。なかでも、ボクのお気に入りは、アルビレオの二重星のところである。

 七夕の故事は、夏の第三角を舞台にしたもので、天帝に河西の牽牛郎のもとに嫁ぐことを許された天帝の娘は、のちに、それまでの天帝たちの雲錦の衣を織る仕事をすっかりおろそかにしてしまったことで、天帝の怒りに触れ、河東の実家に帰されてしまい、悲嘆にくれる。そのあまりの悲しみの深さゆえ、天帝は、七月七日、年に一度、娘が牽牛郎と再会することを許したとのこと。その逢瀬、ふたりは、どこであったのか気になるところだが、万葉集の歌には、牽牛郎が舟を漕いで逢いに出かけたとある。年に一度の逢瀬がかなうことのたのもしさと、永遠に再会を許されないことの絶望との距離は無限大である。1か0かの世界である。

 パンドラの匣に残された最後のものが「希望」であったように、幸せを期して待つことができるということは、それだけで幸せなことである。めざすべきものをたしかに持ちえているときにはじめて、夜空の星は、輝きに満ちて見えてくるということではあるまいか。

  〈たのもしき七夕星に線をひく〉

2012-08-11 11:52 | 記事へ |

2012年07月22日(日)緑蔭に憩えば

 先週の火曜日の7月17日に、梅雨が明けた。いまひとつ押し上げに欠ける梅雨明けとなった。まばゆい光は、いくばくか淀んでいるように感じられ、キリッと明けてほしかった。そのせいか、ここ二、三日は、梅雨に戻ったような空模様であった。

 さきの水曜日、木曜日は、仕事場近くの氏神さんである稲生(いなぶ)神社の夏祭りであった。参道にあたる通りには、露店というか夜店が並んでいた。昔ながらの金魚すくいやスマートボールゲームのお店、定番の焼き鳥にフランクフルトにポテトにリンゴ飴のお店など、にぎわいをみせていた。そのかたわら、綿菓子やお面のお店は、ずいぶんと数が減ったようでもある。これも、時代の変化というべきであろうか。

 ボクは、そぞろ夜店をみて歩きながら、いまの自分が桐の下駄に上品な浴衣姿であるならばと思念した。亡き父に、新年を迎えるための上等な大島の着物を買ってもらっていながら、袖を通したのは、二、三度くらい。にわかに和服に親しい生活がひどく恋しくおもわれた。浴衣を着て、例のひだひだの金魚鉢に金魚すくいの金魚が涼やかに泳ぎ、縁側でスイカを食べつつ、団扇の風で盛夏の午後をやり過ごす、そんなひと時が無性に欲しくなった。気ままといえば、気ままであるが、ひと昔まえは、ごく普通の生活でもあったが、先日のボクは、粉とソースの味しかしない「はしまき」なる粉もんと醤油がたっぷり塗られた焼きトウモロコシを買って、ひとり食べていた。

 梅雨明けは、だれにとってもはっきりとした時節の変化であり、区切りでもある。夏を送り、実りの秋へと向かう祝祭であるかのように、昨日は、小雨まじりの天候のなか、近隣の花火大会は、予定どおり開催された。久しぶりの打ち上げ花火は、ハートのかたちになったり、噴水のように吹き上げられたり、ずいぶんと意匠が凝らされていることに驚かされた。その反面、すべてコンピュータ制御でプログラム化されたハイテクの駆使された花火ショーに、いささか過剰な演出を感じないでもなかった。実に莫大なお金が投入されているのにちがいない。

 不景気のつづくこのご時世、せめて花火だけは華美に贅を尽くしてということでもあるまいが、ネット社会が生活の隅々にまで浸透し、より際立ったもの、刺戟的でインパクトの強いものが歓迎される風潮のなか、木の文化や水の文化、風や光の文化に基盤をもつ、もっと安上がりでシンプルな暮らしの文化に生かされていく必要があるのではないか?

 緑蔭に憩う生活の余裕を、少しでも回復したいものである。

  〈手をとめて晩夏の風に西むいて〉

  〈陰陽の五行の教へ晩夏光〉

2012-07-22 18:18 | 記事へ |

2012年07月15日(日)桔梗色の空は

 このあいだの月曜日あたりから、庭の桔梗が今年も花をつけた。袋状にぴたりとあわさった花は、ぽわかりとゆるやかに解かれ、輪郭線の美しい五弁の花びらが盛夏の光を受けている。もうしばらくして梅雨が明けると、桔梗色の天がひろがり、まばゆい白い光が一帯に降り注ぐのだ。今年は、四月から仕事の内容が大きく変わったこともあって、授業もひと区切りとなる白南風の時節が待たれることしきりである。

  〈七月は見えぬ下りの坂道を堕ちていくよに登り続ける〉

 こんな歌を作ってみた。

 そういえばということでもないが、このところ、ニイニイゼミの鳴き声がよく聞かれるようになった。ニイニイゼミは、湿った土が住む環境としてはいいらしい。このあいだの月曜日に報道されていたニュースでは、土のついたニイニイゼミの脱け殻の映像がクローズアップされていた。鳴くのは♂(雄)で、何年にも及ぶ長い地中での生活に比して、羽化後の地上生活はあまりにも短く、そのなかで次代へ命のバトンをタッチして生を終える。そのことをおもうと、ニイニイゼミが鳴き始めたということは、命の砂時計が逆さになったようにも感じられ、厳粛な気持ちで、その鳴き声に耳を傾けずにはいられない。が、しかし、ホタルだって、カマキリだって、鮭だって、みな同じ命のサイクルを真摯に生きていて、なにもセミだけが「あはれ」なわけではない。

 いつもながらにいい加減な展開だが、「鬼灯」あるいは「酸漿」と書いて「ほほづき/ほおずき」と読む。7月9日と10日の両日は、東京浅草観音たる浅草寺の境内で「鬼灯市」がもよおされている。とりわけ、7月10日は、四万六千日(しまんろくせんにち)として、功徳を積むには、よき日になっていて、たいへんな賑わいとなるらしい。鬼灯の実がマチスのオレンジ色のように色づき、立秋の近きを知らせるがごとく、晩夏の感が際立つ。そういえば、京都では、まもなく祇園祭であるし、大阪では、天神祭もある。

 太陽太陰暦を持ち出すまでもなく、今年の立秋は、8月7日である。そのころの体感気温としては酷暑の極み、夏のまっ盛りと感じてしまうが、すでに6月21日の夏至を境に日は短くなっているのだ。ニイニイゼミに続いてクマゼミが鳴き始め、アキアカネやシオカラトンボが目につくようになって、いよいよ時節は夏から秋へと確実に移ろっていることが強く感じられる、今日この頃である。

 報道される雨の被害や中学生の自殺事件をはじめ、政局や国際問題などに、心を傷め、おのが仕事や個人としての意思を深く省みないではいられない。

 ところで、先日、テレビで放映されていた宮崎駿の「となりのトトロ」を小6になる娘と一緒に見たが、トウモロコシを抱えて単身、入院している母のもとへ駆け出していく妹メイの姿がなかでも印象に残っている。舞台となっている田舎の村は、ちょうどいまくらいの時節であることもさることながら、このアニメは、宮沢賢治の作品群をぬきにしては成立しえなかったとひしと感じ、賢治文学の普遍性にあらためておもいをいたした。

 五十年前に予言されたヒッグス粒子の存在が世界的なトピックとして報道されたわけであるが、いま本当にしっかりと考えなければならないのは、宇宙の始まりにわれわれ種としての人間の起源があり、その宇宙の歴史のなかに、地球という太陽系の惑星のひとつに、いまのわれわれは存在しているということだ。

 そのことを最も根底におかなければ、ボクの思考もその存在も、はかなく浮遊していくばかりだ。時節のインデックスを機縁とし、ボクは、こうしてことばを紡ぐことができているいまに感謝し、さらに自己の存在の輪郭を確かなものとすべく精進していきたいとおもっている。

  〈桔梗(きちかう)の空よわれらもいざ行かん〉

2012-07-15 22:28 | 記事へ |

2012年07月06日(金)大阪検定を受験して

 7月1日、梅雨空のなか、第4回「なにわなんでも大阪検定」が実施された。広島から大阪に転勤で越して来たのは、1993年春のこと。あしかけ20年になろうとしている。

 この間、仕事やプライベートで、大阪の各地に出かけ、ある程度、大阪の輪郭を描くことはできるように感じている。知ることは、なかばその対象と親しむことである。20年近くの歳月のなかで、自分は生活の拠点でもあるこの大阪で何を知り得たのか、そのことにもっと自覚的でありたいとおもい、このたび、無謀にも大阪検定の2級にチャレンジすることとした。昨年第3回の2級の合格率は、16.4%と、たいへんに狭き門である。

 試験場は、大阪府立大学であった。試験室は、十室近くあったかとおもうが、どの部屋も、百人くらいの人でいっぱいで、まさに老若男女が難関の2級を受験しに来ていた。

 諸注意があって、受験番号と氏名を鉛筆で記入し、受験番号にしたがって当該の数字をマークした。楕円が小さくて、結構手間取ってしまった。センター試験の監督は何度か経験したが、いざ受験生になると、自分のことで頭がいっぱいになり、注意事項は、かなりうわの空で聞いていた。

 試験は、諸注意から15分後の2時45分から開始された。1問1点で100問あって、96問め以下の5問は、ご当地問題で、大阪市をはじめ、北大阪や大阪東部など五地域に分けられ、一地域を選択するようになっていた。また、今年のテーマ問題は、大大阪時代の近代建築であった。

 試験が開始され、すぐに末尾の選択問題から始めた。大阪市の問題を選択しようと問題をみたところ、どの問題もこれぞ正答とわかるものがなく、やむなくかつて住んでいた枚方の問題があった大阪東部を選択したが、これまた選択肢を五つから二つに絞れても、ぴたりこれと判断できる問題が見当たらなかった。残りの三地域をみても、やはりどれもわからない。ご当地問題を軽く見過ぎていたとの感は否めない。気をとりなして、1番から問題に取り組んだ。すぐに解答のマークはしないで、とにかく問題用紙の余白に解答番号や?のマークを記入していった。ページを見開くたびに、まったく解答不能な問題が数を増すように感じられ、この検定を受けたことのむなしさ、甲斐のなさを覚えて、意欲は減退した。その極点は、北川景子の出身高校の問題だった。「こんなん、知らんがな」。ただただ、呆然としたが、今年のテーマ問題の近代建築については前日の土曜日に参考図書を購入してにわか勉強をした甲斐あって、合格ラインの七割を越える勢いで正答を見つけることができた。そのあと、今度は、ふたたびご当地問題から解答を確認しながら、解答用紙にマークをしていった。マークをつける作業は、慣れないことで、大いに時間を費やし、時間内に間に合わないのではないかとあせりさえ覚えた。一緒に受験に来ていた仲間がちょっと早めに退出したので、さらにあせって、なんとかすべてのマークを終えて、途中退席のリミットである4時5分にその試験室をあとにした。試験時間にして80分。一心不乱の格闘は終わった。

 自己採点をしてみたが、どうあがいても合格ラインの7割に、あと1点か2点、足りそうにもない。もちろん、当てずっぽうで、4、5問正答したが、近松門左衛門の心中物の問題は、できなければいけなかったし、東京オリンピックの女子バレーボールの決勝戦の相手チーム国の問題は、正答が脳裏をよぎりながらも間違った選択肢にマークをしてしまった。そのほか、定期観光船の発着場所や朝ドラ「カーネーション」のヒロインの母親役の女優のことなどは、身近に知っていたはずなのに、ボクの大好きな女優が正答なのに、間違ってしまったし、片岡仁左衛門が松嶋屋であることや枚方のくらわんか船の資料館が鍵屋資料館であることは、なかば大阪の常識に属することでありながら、間違えてしまった。痛恨の一事である。ご当地ラーメン企画のエースコックやきんかんのど飴のノーベルのこと、伊藤忠と丸紅との関係など、ボクがおろそかにしていたというか、ボクの関心が弱かったのは、大阪の企業に関する問題であったことは確かである。

 ところで、試験が開始されるや、この2級試験の結果について、なぜかしら、ひとつの感懐が胸をよぎった。結果として、ボクは、69点で不合格になるという予感である。ボーリングの10フレーム、ストライクのあと9ピンで、最後の投球でスペアをとれば、200点の大台に乗るのに、緊張のあまりミスをして199点で終わったという類のことをこれまでに何度も経験していた。詰めが甘いというか、最後の押しに欠けるというのが、わが宿運でもあるようだ。

 ともあれ、今回の受験を通して、しっかと感じたことは、やはりひとつひとつの場所を実地に歩いてみなければ、その知識の確からしさは得られないということである。同じ2級を受験した仲間も、同様の感想をもらしていた。今度、綿業会館やなにわ海の時空間など訪ねてみたいし、新井ビルのパティスリー「五感」で洋菓子を買ったりしてみたい。近くは天王寺七坂や住吉大社にも足を運んでみたいし、今回の問題には出なかったところなどにもあちこちぶらぶらと出かけてみたいとおもうようになった。

 知識は、総合され、系統づけられてこそ意味があるのだから、来年度のリベンジに向け、今回のやっつけ突貫勉強で学んだことを生かすべく、とにかくぼちぼちと歩を進めていきたい。

  〈七月は何は何でもどんと行け〉

2012-07-06 17:26 | 記事へ |

2012年06月24日(日)6月の台風は

 台風4号は、19日の夕方にかけて、6月の台風にしては8年ぶりに関西に上陸し、日本列島を縦断して行った。そのため、各地の学校で休校が相次いだ。

 暦のうえでは、21日の木曜日が夏至であった。マラソンで言うところの折り返しを迎えたような心持ちである。これから、しばらくは梅雨の時節が続き、6月末に夏越(なごし)の茅の輪をくぐれば、旧暦の晩夏にさしかかる。小くちなしの白い花もそろそろ終わりごろ、一方で合歓の木の赤い花が目につくようになった。

  〈象潟や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花〉

  芭蕉の句である。象潟の東に聳える鳥海山は、富士山のように稜線の麗しい霊峰である。なかなかにすっきりと晴れる日は少ない。一方、西施は、臥薪嘗胆の故事にゆえんの越王・匂践が仇敵の呉王・夫差のもとに、復讐の策謀の一つとしてつかわした女性で、絶世の美女と伝えられている。つねに憂愁の表情を浮かべる西施は、たぐいまれな美貌であったらしい。雨の象潟にいて、芭蕉は、そんな往事を偲んだことであろうか?

 それにしても、合歓の花は、赤みを帯びた長い睫毛のように、あやしいまでに盛んにほころびる。まじかに見つめていると幻惑されてしまいそうになる。

 ところで、今日日曜日は、旧暦の五月五日。芭蕉の「おくのほそ道」では、福島を出て仙台に入ったころである。曾良(そら)の日記によれば、やはり梅雨の雨にしばしば降りこめられている。芭蕉が、元禄二年の三月の末に江戸の深川を旅立ったことは、以前にも記したところであるが、あらためてふりかえると、芭蕉の「おくのほそ道」の旅は、行く春を惜しみ、来るべきみちのくの夏をゆく旅であった。日光の青葉若葉に、須賀川の田植え歌。松島の月に、平泉の夏草。山寺の蝉の声に、最上の早き流れ。酒田にたどり着いたころには、厳しい夏の日ざしが降り注いでいた。さきの象潟には、酒田を北上し、旧暦の6月15日に到着している。晩夏も半ばのことである。

 今年、激動の夏をいかに過ごすか?冬至に向かって、いかに歩幅を調えていくか?

 これが、目下のボクの関心事である。

  〈夏至すぎて曲がってみたし下り坂〉

2012-06-24 18:44 | 記事へ |

2012年06月13日(水)梅雨に入る

 近畿地方は、6月7日、梅雨入りしたと天気予報で言っていた。暦の上の入梅は、日曜日の10日であるが、ほぼ例年のように、雨の季節となった。梅雨を英語では「the rainy season」、梅雨前線は、「a seasonal rain front」と言うようだ。梅の実の熟す季節の到来でもある。

 先週の土曜日、ずいぶん酩酊して、帰宅の方向とはちがう路線の電車に乗ってしまって、気がついたときには、全くあらぬ駅で降りていた。その日の引き返す電車は、すでに終わっていて、つぎの電車は、翌朝の5時すぎであった。まわりに夜露をしのげそうな場所とてなく、それに夜気は身にこたえた。それで、宿屋のありそうな、もよりの大きな駅まで歩くことにした。時間にして、もう12時をまわろうとしていたであろうか?

 とにかく、ひたすらに歩くことを決意し、実行に移したわけであるが、途中、この眼をうたがいたくなるような幻想的な光景に遭遇した。

 すぐ目の前の河原には螢が数えきれないほどに点じていた。向こうに眼をやれば、すぐ足下のそこここにも点じていて、しばらく陶然と佇んでいた。和泉式部の歌にあるように、「あくがれいづる魂(たま)」の群れに魅入られてはならないようにおもえて、その場を立ち去ったが、歩く道のとなりには、しばらく同様の景色が続いた。

 期せずして螢狩りをすることとなったが、そのことより、螢の明滅と梅雨入りが同期していることの発見にこころ踊るものがあった。

 命をあとに残すために命を使い果たす。命の営みにあらためて感じ入るのであるが、一方で時節の推移にはこのところ、ずいぶんと驚かされる。そのこともあって、知り合いにいまの旬の食べものはと聞いてみたところ、ヤングコーンと新玉葱の答えが返って来た。

 ほんに旬は大切にしたいものである。

  〈梅雨入りや路線たがえて乗り越して〉
  〈前線をなして飛び交う螢かな〉

2012-06-13 23:44 | 記事へ |

2012年06月07日(木)枇杷の実が色づいてきた。

 きのうの朝、散歩をしていたら、枇杷の実が色づいてきているのを見つけた。

 先日、ゴマダラチョウの幼虫は、エノキの葉を食草にしていて、エノキの葉が色づくと、幼虫の体色も葉の色にあわせて変化するという事実について、何人かで話を交わしていた。そのとき、エノキは、どんな木なのかが話題となった。ある者はポプラ、ある者はビワに近いと言い、お互い、エノキについて、これという認識を持ちえていなかった。それで、インターネットで調べてみることとなった。すると、エノキは、ニレ科の木で、ケヤキがそれに近いとわかったのだが、さすがにビワのとんがった、厚手で、ちょっと真ん中から左右に湾曲した葉っぱとはちがうだろうとはおもったので、調べる前から、ボクは、ビワ説を否定していた。

 小学生のころ、友だちの家に、ビワの木のそばに卓球台があって、四、五人ほど、よくそこに集まっては、卓球の対戦をしていた。自分が対戦からはずれたときは、たいてい手を伸ばせば届く距離にある枇杷の実をもぎ取っては頬ばり、大きな種を勢いよく吐き出していた。そんな経験があって、ビワの木に親しんでいたので、ビワの葉っぱのことはそれなりに知っていたし、かなり大人になって、親戚の叔父さんから、ビワの葉っぱは、水虫に効くという話や、胃潰瘍を治すのによいとかと話を聞かされたことがあって、おりおりにビワの木を見つけては、この葉っぱが本当に効くのかなあとおもって、立ち止まっては、ビワの葉っぱをしげしげと見たこともあった。

 ボクの父は、癌のため67歳の夏七月に他界した。入院して手術をしてから、ひと月たらずのことであった。見舞いに行った病院の近くにビワの木があって、病院の廊下から黄味のさしてくる枇杷の実をよく眺めていた。

 こうしたことで、ボクは、枇杷の実に対して、ちょっと特別な感情を抱かざるを得ないのであるが、ビワの木がボクの家の近所にあったとはついぞ気づかずにいた。

  〈枇杷の実の種は大きくつやがあり〉

 果たして、枇杷の実の種を植えて、ビワの木の芽は、ちゃんと出るのであろうか?

2012-06-07 13:33 | 記事へ |

2012年06月05日(火)六月のカバンは

 六月を迎え、なんだか新たなステージに入ったような感覚を覚える。日中の暑さが強く感じられ、半袖が当たり前になった。衣更で、スーパークールビズが世上の話題となっているし、紫陽花の萼も大きさを増して、華やかに色づいてきた。新年度が始まって二ヶ月。始動から、そろそろエンジン全開へと向かっていきたいところ。そのせいか、六月に、祝日はない。

  〈六月のカバンは口をあけたまま〉

 敬愛するネンテン先生の初期の俳句。愛唱の一句でもある。ネンテン先生は、河馬俳句のパイオニア。口をあけるのは、河馬もカバンも、ということではあるまいが、ある空虚な感じというか、どこか投げやりな感じが、6月だからこそ、あらわになるということであろうか? あるいは、暑さや湿気のために、緊張感も緩んで、ちょっとふしだらになってしまうということであろうか? はたまた、せっかく心機一転、春から頑張っていたけど、結局、夢破れ、こころが虚ろになってしまっているということであろうか?

 ペシミスティック(悲観的)な感じばかりが連想されるが、句には、どこか、ある生々しさが感じられて、クラゲのように獲物を待ち構えているような、外の世界に開かれた感じもする。

 どうにも、不可思議な句であるが、そこがまた魅力でもあり、やはり、「六月のカバン」は口をあけたままでなければならないようにおもえ、電車を待つサラリーマンのカバンに目がいってしまう。

 今回は、俳諧ふうに、脇と第三を付けてみる。

  〈六月のカバンは口をあけたまま〉
   〈買うてまもないダンテの『神曲』〉
  〈古本の店屋の名前河童堂〉

 仕切り直して、いま一度。

  〈六月のカバンは口をあけたまま〉
   〈借りたまんまのダンテの『神曲』〉
  〈レポートの課題がたまる学期末〉

 どうも、冴えないので、いつものように、締めの一句。

  〈犬眠るよこであじさい談笑す〉

2012-06-05 11:00 | 記事へ |

2012年05月28日(月)教養の効用

 教養を電子辞書の和英辞典でひいてみると、「culture」と記載されていて、ちょっと拍子抜けしたが、用例としてあがっている「教養を高める」は、「cultivate oneself」とあって、みずからを耕すことが教養とはと感心した。おりしも、丸山真男の「「である」ことと「する」こと」の文章を読む機会があって、その文章には、シーグフリードの教養観が引用されていて、教養は、経済的な利益や社会的地位を得るために身につけるといったたぐいものではなく、「自己の存在のありようを問う」ための、実存の基盤のようなものであることが説かれていた。中国の故事にもとづくなら、「無用の用」ということになるであろうか?

 このところ、「水」のことや「豆(まめ)」のことにあれこれ関心をもって、なにかそれに関する話題があれば興じている。吟醸酒を育む「水」は、酒米の育成にかかる「水」もあれば、洗米、仕込みにかかる「水」もある。どんな「水」でこの吟醸酒は、できたのか? そのおおもとの「水」は、どこからやってきたのか?そんなことに想いを馳せながら飲む吟醸酒は、格別な味がする。

 「水」について考えるためには、それ相応の知識が必要である。そのさまざまの知識が教養であるとも言えるが、手持ちの知識をいろいろ組み合わせたり、関連づけたり、整序したりするうちに生まれる世界観とも思想とも言われるものが、いわば教養の本質をなしているのではないか?

 21日の朝の金環日食と20日のNHKスペシャルで特集されていたオーロラ。それぞれに神秘的な現象であるが、それらは、ともに太陽系の出来事として理解できる。太陽の活動には、一定の周期が観察されていて、来年あたり、太陽の猛烈な活動による太陽風が、巨大オーロラを発生させかねない状態にあると言われている。その番組のナビゲーターをつとめていた宇宙飛行士の古川聡が宇宙ステーションにあって観察したデータによると、太陽風の量が増加しているとき、新星爆発などによる強力な放射線である銀河宇宙線の量がそれに呼応するように減少の傾向を示すというのだ。そのことは、太陽の活動が活発になると、巨大な磁場をなしている太陽系のバリアは勢力を増し、結果として、宇宙線をはね返すことで、地球に向かってくる銀河宇宙線の量が減ると考えられている。逆に、太陽の活動が減衰期に入ると、太陽風は弱まり、雲を発生させ、地球に低温下をもたらす銀河宇宙線がたくさん地球に降り注ぐことになるというのだ。太陽の活動がピークを迎え、地球に巨大オーロラをもたらしたあとに、その周期から推定されているのは、太陽の活動がきわめて低位な状態のまま70年ほど推移し、オーロラの出現しない地球は、マウンダリー極小期と呼ばれる低温化の危機にみまわれてしまうというのだ。歴史上、1645年からの70年間がこの時期にあたり、テムズ川は氷つき、地中海に面する南仏の村には雹や霰が襲ってきたとのことだ。日本で言えば、ちょうど松尾芭蕉が生まれた翌年がその始まりのにあたる。

 地球温暖化のことや太陽光発電のことはわが国を含め世界的な関心事である。そもそも太陽からもたらされる光は、粒子と波の性質をあわせもつ、紫外線から赤外線まで、あわゆる色の集合体であり、光速不変の法則が相対性理論の屋台骨でもあるわけで、太陽の光なくして昼はなく、また気温もあがらず、植物たちの光合成は機能しなくなり、結果として、あらゆる環境が劇的に変化し、ボクらの生活は一変し、生存の危機にさらされ、人類の文化が断絶してしまう事態になりかねないことが予想されている。

 「太陽」を考えることは、とりもなおさず太陽系に位置するボクらの「地球」を考えることであり、ボクらの生活や文化の根源というかその基盤や基底を問うことにほかならない。

 かつて、教養のあるなしが人々の地位をわけたり、相互のつながりを分断することに機能することもあったが、いま問われなければならないのは、ボクらの生活の質が、実際のところ、いかようのものであるのか、そのリアルな認識ということではあるまいか?

 昨日の夕方、朝日放送で「伊豆田子節(たごぶし)」ブランドの鰹節がどのような工程をへて、本枯れ節(ほんがれぶし)と言われる商品にまでなるのか、その模様がていねいに紹介されていた。鰹の背の側を雄節、腹の側を雌節と言い、脂分のちがいもあって、その用途も異なるようだ。それなら、鰹の魚としての雌雄によっても味の違いがありそうだが、そこまでは、紹介されなかった。ちょっとというか、大いに気になる問題であるが、いまはそれはそれとして、本物の鰹節がつくられるまでに何段階も工程があり、そこには生モノを保存し旨味を引き出すための理にかなった伝統の技術がさまざまに駆使されている。ボクは、そうした工程を知るに及んで、カビ菌の力をかりる知恵や天日干しにする意味について考えながら、そうした本物の味を体験してみたいとの思いは、いやましに高まってくる。実際に食してみるなかで、そのさまざまの背景が直に感じられて、なおのこと、その馥郁たる味が広がりをもって認識されるにちがいない。

 いまや、漬物や味噌が手前のものであった時代ではなくなり、自動販売機の飲料水やコンビニの調理されたパックの味がしだいに当たり前になっていくなかで、自然の味わいが忘れられ、自然そのものへの関心も希薄になっているのではないか?このことは、すなわち教養の衰退ということを意味しているということではあるまいか?

 あらためて教養の効用ということを考えずにはいられない今日この頃である。

  〈節電の夏には夏の自然から〉
  〈笹舟を友と浮かべて帰ろうよ〉

2012-05-28 18:58 | 記事へ |

2012年05月19日(土)琉球の風よ光よ

 昭和47年(1972)5月15日、沖縄は、アメリカ合衆国の統治領から日本国の領土となった。いわゆる沖縄返還の日である。ときの日本国総理大臣は佐藤栄作であった。この日から、日本国だから、鹿児島から沖縄に渡航するのにパスポートは不要となった。

 当時、ボクは、小学6年生だった。テレビで、車が日本国の法令にしたがって、合衆国時代の右側通行から左側通行に切り替わって、戸惑う人々の姿が交差点の風景として映し出されていたのを覚えている。それが、沖縄とのボクの最初の出会いである。

 1988年、ボクは、高校2年生の担任となり、修学旅行の引率として、はじめて沖縄の地に降り立った。本部の水族館(海洋博記念公園)、名護のパイン園、今帰仁城などをまわり、糸数壕(ガマ)にも入り、摩文仁の丘では献花をおこなった。嘉手納基地が見える、いわゆる安保の丘にも行き、ひめゆり部隊の語り部の人の話もお聞きした。また、縁あって、個人的に琉球新報の記者の方とホテルのロビーで面会し、地元の気風というか、大人中心の文化について興味深いお話をお聞きした。

 ボクは、生徒たちの組織する修学旅行実行委員会の研修チームの指導教員をしていたので、沖縄の文化、歴史、地理、生活、産業、沖縄戦、基地などに、とても詳しくなった。そのための本や資料にもたくさん目を通した。

 引率教員の利点で、地元のガイドさんのお話をすぐそばで親しくお聞きする機会に恵まれ、沖縄というよりも琉球への理解はさらに深まった。なかでも、年輩のガイドさんからお聞きした「琉球弧」の発想が最も印象に残っている。那覇を中心に半径500㎞の弧を描くと、どうなるか?琉球王国は、大陸にひらかれた東アジアの拠点として繁栄してきた海洋国家だったのだ。琉球は、本土よりも実は、中国大陸に近い。
 
 ヤマトや本土に対するウチナワというよりも、琉球王国は、そもそも、中国に朝貢し、貴賓国の使節を受け入れる独立国であった。江戸時代、島津藩の支配下となり、明治には、廃藩置県にともなって、沖縄県となった。大日本帝國憲法下の日本国において、植民地として統治した地域を除くと、多数の民間人を巻き込んで地上戦が展開された、本土周辺の地域であった。1945年3月26日、米国を主力とする連合軍の艦隊による艦砲射撃によって熾烈をきわめる沖縄戦は始まり、北谷(ちゃたん)の浜辺から陸続と地上軍が投入された。火器や戦力で圧倒的な優位にたつ連合軍によって、日本軍は退却を余儀なくされ、南部戦線は、多くの住民の犠牲をともなった。山のない平坦な南部の地域における逃げ場所は、点在する自然の洞窟である壕(ガマ)と呼ばれる場所だった。軍人軍属とともに沖縄の住民は、そこを生活の拠点とするしかなかった。赤ん坊の泣き声が外に漏れるということでわが子の死に直面した親もあり、ウチナーグチを話す住民は、スパイの容疑をかけられ、命を落とすこともあったと聞いた。戦局がいよいよ悪化した段階で、ひめゆり部隊をはじめ沖縄住民が教導されたのは、「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」という徳目だった。その結果、敢行されたのが住民による集団自決であった。手榴弾によるものや、断崖から万歳を唱えて身を投げる人々などたくさん住民が非業の死を遂げたのである。1945年6月23日、この日をもって沖縄戦のひとつの区切りがつけられ、現在も、この日は沖縄戦終結の日として、鎮魂と平和への深い祈りが捧げられている。

  〈戦場(いくさば)の野は幻にキビの花〉

 88年に、現地でつくった句である。秋の終わりで、ススキの穂のようにサトウキビの花が南部一帯に広がっていた。以来、90年には再び修学旅行の引率、2002年は家族旅行、2003年は学会発表、2007年9月には大学院生の研修旅行の引率でやって来て、西表島、与那国島の小学校を訪問したあと、那覇のさつき小学校では6年生二クラスで、句合わせ(句相撲)の授業をさせていただいた。

  〈琉球の風に歌おう秋祭り〉
  〈「運命」の曲を聞きたい秋ですね〉

 最初の句については、そこそこの支持を得た。同じ年、今度は那覇の小禄小学校で五年生の二クラスを対象とした音読の実験授業に挑戦し、校内で研究協議会も開催していただいた。2010年10月には、院生の修士論文指導のために、那覇の同じく小禄小学校と新たに垣花小学校のそれぞれ6年生ひとクラスで、「月(名月、満月)」をテーマとした二時間の句会の授業をさせていただいた。

  〈琉球の風よ光よ秋来たる〉
  〈満月は宇宙にひとつの宝物〉
  〈裏庭へ月を見るためいそぐんだ〉

 上はボクの句。下ふたつは6年生の句。琉球の秋について、俳句をつくり読み合うことで、あらためて肌身に感じながら向き合うこととなった。

 おもえば、こうしたこれまでの旅は、琉球沖縄から日本の教育や国語科授業のありかたを考える旅でもあった。

  〈グスクイリカーマ昔の夕焼けて〉

2012-05-19 10:17 | 記事へ |

2012年05月14日(月)初夏の読書から

 読書と言えば、灯火に親しむ秋ということになろうが、風薫る初夏もまたよいのではないか?

 読書のナビゲーターとして、ボクは、高校生のころから岩波書店の月刊誌『図書』を愛読している。途中、数年欠けることはあったが、すでに30年以上のお付き合いである。このごろは、連載で読んだ文章が、いつ単行本になるか、どんな一冊の本になって出版されるのか、心待ちにしている。

 昭和50年(1975)4月、高校に入学したボクは、ちょっと風変わりな高校生だった。ある友人の影響で、しだいに深く旧制高校の気風にあこがれるようになった。芥川龍之介は、一中、一高(第一高等学校)、帝大(東京帝國大學)で、そのシンボルだった。

 高校一年生の初夏に、ボクは、何を読んでいたのか?記録を残していないので、記憶はあやふやであるが、文庫本のパスカルの『パンセ』だったかのような気がする。現代国語の時間に習った唐木順三の文章に、パスカルのあの有名な「人間は考える葦である」のところが引用されていたからかもしれない。ボクは、本屋さんというところで、はじめてその文庫本を購入し、つづいて、野田又夫氏の『パスカル』と『デカルト』を買い求めた。これまた、人生はじめての岩波新書であった。旧制高校のころ、青春時代というものは、まずは哲学することがスタートだった。当時の高校生たちが読んでいた哲学の教科書は、波多野精一先生の『西洋哲学史要』であると知り、ボクは、その本を大きな本屋で捜し求め、手に入れた。旧漢字で、漢文訓読体の文章であった。何度も何度も漢和辞典をひいては、なんとか読み通した。デモクリトスやアナクシマンドロスなど、名前が変わっていて面白く、古代ギリシアの自然哲学は興味深かったし、ライプニッツのモナド論は、ユニークだった。

 一度、船団の会の機関誌『船団』に「本を贈る」と題して、その青春時代のころのことを書いたことがある。初夏の読書ということから青春の読書ということにテーマがシフトしてしまうが、哲学からドイツ文学へ、そこから小林秀雄の批評へと、ボクの読書は、推移した。小林秀雄の東京帝國大學仏文科の先生のひとりに、渡辺一夫がいた。ユマニスムスの精神に貫かれた随筆『人間模索』は、ボクにとって、とても大事な一冊となっている。赤鉛筆でたくさん線を引き、繰り返し読んだ本である。同じく線を引いた一冊としては、三木清の『哲学入門』(岩波新書)がある。三木清は、西田幾太郎のいる京都帝國大學に学んだ俊才だった。『構想力の論理』は、高校生のときに買い求めたが、数ページを読んだきりで、いまもいつかは読んでみたい本として大切にしている。

 父に筑摩の日本文学全集を買ってもらったことを機縁に、大学生になると、ボクは、日本文学を志向し、吉行淳之介や安岡章太郎の文章を立て続けに読み、一方で、山岸徳平校注の『源氏物語』(岩波文庫)を「桐壺」から読み始め、大学三年生の夏休みには、岩波古典文学大系の『平家物語』を読み通した。大学院に入って、風疹で出席停止となっていたときに、吉川英治の『三国志』全8巻を読了し、院生二回生のときには、アインシュタインとインフェルトの『物理学はいかに創られたか』(岩波新書)全二冊に出会って、アインシュタインの相対性理論に衝撃を受け、現代物理学の理論書をいくつも読んで、それをベースにした国語教育理論を夢想した。

 青春時代の読書は、人生に決定的な影響を及ぼすものであることが、50を過ぎてひしと感じられるときがある。何を読んできたかとどう生きてきたかは、密接不可分のこととおもわれる。

 いま橋川文三の『昭和維新試論』朝日新聞社を、ひさかたぶりに初夏の読書として読み始めている。買ってはいたが、ながらく放置していた本である。これも、なにかの促しとして、しばらくこの本と向かい合い、思索を深めてみたい。

  〈緑蔭のベンチに論語岩波文庫〉

2012-05-14 17:22 | 記事へ |

2012年05月09日(水)桐の花が咲いて

 タンポポの種の落下傘が、ひとつだけ静かに環状線の鶴橋駅のホームに落ちなんとしていた。はっとして見ていたら、ホームのベンチにウマヅラハギにとてもよく似た顔の人がいた。

 偶然の取り合わせがおかしく、おもわずメモをとった。そういえば、先日、桐の花がたくさん咲いている光景を目にした。桐の花は、立夏の花と言いたくなるくらい、いま時分に盛りとなる。同じ紫の藤の花よりいくぶん早く咲くようだ。

  〈桐咲いて妻はラクダになりました〉

 ネンテン先生の句であったかと記憶している。桐の美しい花に見惚れて、ふりむきざまに妻を見ると、なんとラクダになっていた。錯覚かと思って声を掛けてみると、いつもの妻の顔。どうも、桐の花は、魔法をかけるようだ。などと、あらぬ想念が湧いてくる。

  〈くたびれて宿借るころや藤の花〉

 芭蕉の『野ざらし紀行』のなかの句。奈良のあたりを旅していたときの句であったか。紫陽花の宿、山茶花の宿はあっても、藤の宿は、ちょっと似合わない感じだ。ボクのなかの藤の花は、公園の砂場の近くにある。そんな幼いころからの経験が根強い。芭蕉の藤は、藤棚の藤でなく、自生の山藤のなのだろうか。

 藤の花のイメージは、光源氏が思慕した藤壺から内裏の紫宸殿や清涼殿へとつながり、気品を湛えた感じだ。少年期のボクの記憶は、花よりも、むしろちょっとブーメランのような硬めの恰好の鞘とそこにおさまっている種子のほうに向かっている。

  〈瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上に届かざりけり〉

 正岡子規の名歌である。藤の花の存在感が見事に形象化されている。水平の視線が、しかとそこにある。と、理解はしてみるものの、ボクは、藤の花を見上げていたし、花の蜜を求めにやってくるクマンバチの羽音に恐れをなしたものである。

 と言うことで、芭蕉の句の理解は一向に進まないし、深まらない。やむなく、ここらで閑話休題とする。

 生活経験とことばは、わかちがたく結びついているが、このごろ考えているのは、生産労働というか、第一次産業にたずさわる仕事とことばの問題である。ボクは、消費者あるいは傍観者として、相当程度ぼんやりしていることが多い。桐の花や藤の花に目をやり、想念をめぐらしはするが、どうも、その核心に迫れていないもどかしさをつねに抱えている。桐のたんすは虫よけの作用が強くて、上等であるとは聞くが、どうもその花とタンスは結びつかない。まさか、あたら花を咲かせているということもあるまい。藤の花とて同じことである。見る対象としての藤ではなく、藤細工ものがあることを聞き及んではいるが、やはりそれらと藤の花は結びつかない。桐の木のある生活、桐の木を生かす生活が、ボクのなかにはない。

 どうも、話は工芸へと向かってしまっている。「民芸」とよばれた運動は、自然の力を借りながら、それを生かした生活の調度をつくり、生活のなかで使っていくことにあったのではないか? 自然の美しさは、自然を生かした生活にある。労働の助けとなる道具や衣類、労働の疲れを癒す家の調度類が自然のモノに深くつながっている生活。そんなナチュラルな生活を、ことばのにおいや懐深さとのかかわりにおいて、ボクは、いま強く希求している。

  〈純吟の冷やの旨さやきき切子〉
2012-05-09 23:01 | 記事へ |
2012年05月07日(月)
月と闇の輝き
 先日のことである。雨があがり、美しい月夜となった。十日すぎの月が出ていた。月の暈が円を描き、山側の北にある雲のかたまりは、夜なのに妙に白く浮き出て見えた。

 月の輝きは、それ自体のものではなく、太陽の光による明るさであることは、知識として了知していることでありながら、そのえもいわれぬやさしく哀しい輝きに魅了されてしまう。

 輝かされる存在としての月。テラたるこの地球も、宇宙から見れば、太陽の光をうけて青く輝いているわけである。

 それ自体が発光するものはといえば、すぐにホタルを思い浮かべてしまうが、もっともっと身近なものは、火や炎である。

 ギリシア神話で、ゼウスのもとから火を盗み、ボクら人間にその恵みをもたらしてくれた神は、プロメテウスであったか。稲光や稲妻は、雷神のなせるものであり、その巨大なエネルギーは、地上に落ちて、ときとして樹木や家屋を発火させる。木と木との摩擦熱で火を起こす技は、並大抵のことではない。もちろん火山の噴火や溶岩は、莫大な火をもたらすし、太陽光をレンズで集約すれば発火を導くことはできる。

 マッチやライターやガスで簡単に火が得られるようになって、電気の力でスイッチひとつ押せば灯りをともすことができるようになって、「火」をまともに見つめなくなり、貴重な賜物としての火を守るという行為が忘れられ、火を神聖なものとして敬う意識は絶望的なまでに稀薄になっているのではないか。

 五行説ではないが、火は、木から生まれ、炭や灰になりながら、その火を絶やさぬようにすること、いわゆる火の番は、煮炊きや灯火に欠かせぬ埋み火をたもつことである。それは、家事の中核をなしていたはずだ。

 「囲炉裏」の火は、単に煮炊きや暖をとるためのものではない。炉端にあって、ボクらは、火を見つめながら憩い、語らう。キャンプファイアーは、輪の真ん中に火を燃やすところから始まるのである。いまにしておもえば、中学時代、キャンプファイアーは林間学校でのメインイベントであり、ちょっと滑稽な程、点火の儀式は厳粛な感じだったというか、おごそかなたたずまいに満たされていたことが、いまも鮮烈に思い出される。

 うちから燃えつづけることによる輝きは、太陽の核融合を思い起こさせるが、地球のなかにはマグマがあって、激しい熱による輝きを持って対流しているわけだ。火や炎は、さまざまの宗教儀式に不可分のものでもあるが、輝くことの意味をも教えてくれてもいる。

 闇の深さがあってはじめて、その輝きは、けざやかに彩られる。みずから輝くことがあたわぬものでも、大いなる輝きによって、輝きをもつことができる。

 谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」ではないが、自然の闇のなかで、火や炎の輝きを見つめながら、この地球に暮らすボクらの命の輝きについて沈思黙考し、親しき人と静かに語らいたいものである。それは、囲炉裏の文化の復興であり、人間復興へのひとつのステップになるのではないか?

  〈囲炉裏ばたツァラトストラと笑み交わす〉
2012-05-07 11:33 | 記事へ |
2012年05月03日(木)
緑雨のこと
  〈緑雨(りょくう)ですいまくちびるに触れないで〉

 船団のわたなべじゅんこさんの句である。「緑雨」とは、広辞苑によると、「新緑のころに降る雨」とある。若葉のさみどりがしっとりと濡れ、やわらかな輝きがことに美しい。

  〈蛙鳴く五月の夜に見る夢は君のくちびる吾れのくちびる〉

 前任校で、たいへんお世話になった先輩の国語教師の初恋の歌である。たしか、中三か高一のとき、同級生の愛しき人に贈られたと記憶している。

 新暦の5月は、朔日が八十八夜、5日のこどもの日が二十四節気の立夏である。夏の到来である。

  〈百日紅(さるすべり)ごくごく水を飲むばかり〉

 石田波郷の句である。夏は、熱代謝による発汗作用がさかんとなり、水分補給が欠かせない。水は、科学式では、H2Oとならったが、ボクが飲料としたり、植物がその養分としたり、光合成の機能を果たすために用いたりする水は、純粋なるH2Oではない。いろいろなミネラル分が含まれていたり、細菌のたぐいなどもさまざまに存在しているであろう。

 中国の五行説によると、「木」「火」「土」「金」「水」の「木」には春を、「火」には夏を、「金」には秋を、「水」には冬を配していたか。

  〈冬の水一枝の影もあざむかず〉

 水原秋桜子の句であったか、中村草田男の句であったか、中学校の国語の授業でならって、とりわけ印象に残っている。凛とした厳しさが伝わってくる句である。

 緑雨からくちびるへ、そして水を飲むこと、さらには根源たる水の存在へと、ゆるやかに想念は流れていった。

  〈ふるさとの兄より初夏の便りあり〉
2012-05-03 23:11 | 記事へ |
2012年05月01日(火)
「昭和」という時代
 芥川龍之介が自死によって他界したのは、昭和2年(1927)7月24日のことである。芥川龍之介の才能を見出した夏目漱石は、正岡子規や南方熊楠と同じく慶応3年(1867)の生まれで、漱石は、大正5年(1916)12月9日に亡くなった。

 ボクが研究対象としている国分一太郎は、明治44年(1911)3月に生まれ、昭和60年(1985)2月に逝去した。ボクの父は、昭和4年(1929)11月24日に生まれ、癌のため、阪神大震災の平成7年(1995)7月11日にこの世を去った。

 ベルリンの壁が打ち崩されたのは、平成に改元された1989年11月のことである。「昭和」は、1926年12月25日に改元されて始まり、天皇裕仁(ひろひと)の崩御した1989年1月7日が昭和最後の日となった。

 明治から、皇室典範にしたがって一世一元号の制がしかれている。ニッポンでは、645年に、はじめて「大化」の元号が定められて以来、国家の危難や天変地異に際しては、しばしば改元され、「明治」の前が「慶応」、その前が「元治」、そのまた前が「文久」、そしてそのまた前が「万延」、さらにさかのぼると、「安政」というふうに、改元が繰り返された。ちなみに、「万延」は、1860年3月18日から、わずか一年も経たないうちに「文久」に改められている。ときに、孝明天皇の在位は、1847年から1866年であった。

 承久の変、養和の飢饉、安元の大火、応仁の乱など、そのときどきの衝撃的な出来事には、元号が冠せられる。もともと元号の制は、時間をも支配する権力のシンボルとして、かの始皇帝から始められたと聞いたことがある。時間を区切り、切り出して、それをひとつの特定の時代としてくくりあげてしまう力は、人心を掌握するためのものでもある。たしかに改元によって、世の中が新しくなったように感じられ、昭和は、平成のいまからすると、ひと昔のようにおもわれてしまう。昭和生まれと平成生まれとでは、ずいぶんニュアンスはちがう。

  〈この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日〉

 俵万智の第一歌集『サラダ記念日』に所収の歌である。時の記念日や耳の日など、世に記念日はあまたとあるが、「サラダ記念日」のように、人それぞれにきわめて個人的な記念日もある。

 元号と記念日は、あきらかに異なったものではあろうが、延喜5年、建久3年が、それぞれいつのことであるかをすぐに言えるひとは少ないのではないか?

 延喜5年は905年、最初の勅撰集である『古今和歌集』が醍醐天皇に奏上された年であり、建久3年は1192年、鎌倉の地に最初の幕府がひらかれた年である。元禄にしても明和にしても文化にしても文政にしても、それぞれにその時代があって、その時代を生きた芭蕉や蕪村や一茶には、そのかけがえのない人生があった。

 はなはだくどくなってしまったが、ボクにとっての元号は、ある意味で思い出のインデックスであり、元号それ自体は時代順に並んではいない。「元治」と「文治」とに、いまのボクは、「天平勝宝」と「寛弘」とが違っていると同じように、その時間の隔たりを認識することはできない。「元治」も「文治」も、その名称としては、まったく等価に存在すると言っていい。

 個人的な記念日のように、ボクらは、元号をその大事なことと結びつけて、それぞれ個別に思い出さなくてはいけないのだ。非連続なまま、よくよくわが身をうちこんで、思い出さなくてはいけないのだ。たしか、小林秀雄が、そうした考えを繰り返し主張していたから、ボクも、そのように思念するようになったのだといまにしておもう。モノやコトに即する力が実は、問われているのだ。

  〈湧き出づる清水の水の遠さかな〉
2012-05-01 22:49 | 記事へ |
2012年04月28日(土)
夏は来ぬ
  〈プラタナス夜もさみどりの夏は来ぬ〉

 石田波郷の句である。

  〈若鮎の二手になりてのぼりけり〉
  〈ずんずんと夏を流すや最上川〉

 ともに、正岡子規の句である。

 夏は、勢いが盛んである。おういつする気のみなぎりは、「万緑」の語感にふさわしい。

 夏は、また虫の季節でもある。チョウにアリにハチ、ホタルにセミにコガネムシにカブトムシ、カマキリ、テントウムシ、カにトンボなどなど、実に旺盛である。虫は、変温動物であるから気温の上昇が活動を誘引するのであろう。

 夏は、一方で雨の盛んなときでもある。梅雨の長雨は五月雨であり、五月闇にはもの忌みをせねばならぬ。

 ところで、枕草子の冒頭の夏の項は、どうであったか? 夜に雨に、闇に飛びちがいたるホタルが、とりあげられていたのではないか? いま、その本文をそのとおりに思い出すことができない。国語教師としては、なんとも情けないが、それは、ともかく、温帯モンスーン気候なればこその日本の夏が始まっていて、これから秋にかけてのその変化は、まことに激しいものがある。

 さて、これから、いよいよ本格的な田植え、田づくりの夏でもある。

  〈風流のはじめや奥の田植えうた〉

 芭蕉の「おくのほそ道」の旅が、まさに地に足がついたときの記念の一句。今年2012年は、期せずして芭蕉が「おくのほそ道」をおこなった元禄2年(1689)と同じような暦となっていて、芭蕉が江戸の千住から奥州街道へと踏み出したのは、弥生も末のことで、閏(うるう)三月のことであった。そのときの暦は、今年と1日違いでピタリと重なってもいる。今年の夏は、芭蕉の句とともに俳文「おくのほそ道」の旅をすることが、実はオススメなのである。

 かなり、いつもながらに横道にそれてしまったが、「さつき」「さくら」「さをとめ」の「さ」は、田の神のこととか。イネ科の植物が文化の土台をつくってきた歴史は、アジアの歴史でもある。だから、夏は、アジアのなかのニッポンを観ずるときなのでもある。

  〈バッタとぶアジアの空のうすみどり〉

 ネンテン先生の一句。さすがである。アジアの教育学は、アジアの生活学でなければならないとは、2006年に三週間ほどタイに滞在したとき、ボクが見出だした、ささやかなひとりよがりのテーゼである。

  〈米の道まっこと夏は暑おます〉
2012-04-28 21:31 | 記事へ |
2012年04月27日(金)
クヌギの花
  〈世の人の見つけぬ花や軒の栗〉

 これまた、芭蕉の句である。栗の木が家の近くにあり、夏場に、みどりなすいがをまとった栗の実が、秋には、それこそ栗色の果実となって、道端のそこここに落ちる。秋の深まりは、栗の落下からと観じたものである。それで、栗と団栗について、あれこれ調べたりしているうちに、クヌギの木の実も、広義のドングリの仲間であることから、栗の木のそばにあるクヌギの木をおりおりに観察するようになった。

 一昨日、バス停の道端に、たくさんのクヌギの花が芥(あくた)となって落ちていて、本体の木に目をやると、若葉から少しさがった枝のところに、藤の花のように、たくさんの雄花がすずなりになってぶらさがっていた。ちょっと、シャクトリ虫というか、何かの幼虫のようであった。ときに、ひとつのぶらさがりが風に吹かれて落ちていった。

 季節は、確実にめぐっている。夏がやって来たのである。季節の目印、インデックスは、そこここにある。しかし、人事にとりまぎれて、たくさんのことを見過ごしている。

 それは、とがめられるような筋合いのものではないが、あまりにもパーソナルなというか、個々人が端末化されてしまって、新たな利己主義というか、パスワードで防御するような個室主義の「おひとり様」になってしまって、リアルな現実が認識を媒介するのではなく、ネット上の断片化された、なかば煽情的な情報が認識を先導する。孤我の利益を誘導するお得な情報によって方向づけられた、ものの見方や感じ方が優先される。ものの味わいとして本当に美味しいかどうかではなく、美味しいと評判だから、美味しいのであり、その評判の美味しいものを食べたことを自慢したいから、誰かにそのことを伝えたがる。伝え合うことは、必ずしも分かち合うことにはならない。むしろ、とりもらうことが、その孤我の流儀である。いわば、ポイント制の個人主義が、その様態である。

 ボクら人間のからだも自然のものから出来ている。体内の6割から7割は水分である。自然に生かされながら生きているという当たり前のことをあらためておもいかえしながら、ナチュラルであることの意味を深く考え、その営みに親しく付き合う必要があるのではないか。とりもらうばかりでは、いけないのだ。

  〈深呼吸われ夏山を来たるかな〉
2012-04-27 13:14 | 記事へ |
2012年04月24日(火)
青葉若葉のころ
  〈あらたふと青葉若葉の日の光〉

  〈若葉して御目の雫ぬぐはばや〉

 ともに、芭蕉の句である。一句めは、日光東照宮をおとずれたときの句。二句めは、奈良の唐招提寺をおとずれ、鑑真和尚の木像を拝したときの句。青葉若葉の霊験は、あらたかなのである。それは、神たる存在のあらわな姿というべきかもしれない。

 「青葉繁れる」は、井上ひさしであったか、それとも安岡章太郎であったか、小説のタイトルである。青葉若葉と併記したが、青葉は若葉より緑が濃いというのが、一般的な受けとめであろう。若葉は、文字どおり若々しくやわらかで、黄味がかったうすみどりの色がみずみずしい。命の息吹きがそこにある。旺盛である。

  〈春すぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香久山〉

 持統天皇の御製される歌である。印象派の絵のように光はあふれ、緑のなかの白がとてもあざやかである。

 かりに「春の神」を偶像化するなら、ボクのなかでは、かのボッチチェリの絵に描かれたビーナス(アフロディテ)が、それにあたる。しからば、「夏の神」はとなると、それは、なぜかアポロ(アポロン)である。アポロン(アポローン、ともにギリシャ語読み)は、光明神として崇められた。日本に引き寄せていうなら、スサノオや若き日の光源氏がそのイメージにぴったりとくる。「夏の神」は、美しく若きオノコの神と考えてみるのは、いかがであろうか?

  〈いざやいざ青葉若葉の神来たる〉
2012-04-24 13:14 | 記事へ |
2012年04月23日(月)
五月待つ
  〈ハナミズキ五月の嘘になじむ夜〉

 辛口批評の友人に、いささか見所ありと褒めてもらった句である。

  〈さつき待つ花橘の香をかげば昔のひとの袖の香ぞする〉

 これは、旧暦五月を待つ歌である。同じく古今集に、〈あやめもしらぬ恋の道かな〉の詩句があったかとおもって、インターネットを検索したら、ちょっと違っていた。

  〈ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな〉

 俳句的な観点からすると、〈目には青葉やまほととぎす初松魚〉と同様に、「ほととぎす」に「五月」に「あやめ草」と季語のオンパレードである。旧暦五月は、夏の真ん中だけについつい勢いが出てしまうのかもしれない。

 今日は、旧暦の閏三月三日。初夏の候である。あちこちのハナミズキも、急速に花萼を広げ、色づいている。ピンキィとキラーズの「恋の季節」ではないが、「あやめも知らぬ恋」の時節に向かっているのだ。

 そういえば、つい最近、街中に猫どうしの激しい争闘のもの音を聞いたし、モンシロチョウが二匹むつまじげに飛んでいた。

 メタセコイアもクヌギも、一斉に若葉が勢いを増している。日に日に、その景色は違っていて、なんだか頼もしい。

  〈まづ頼む椎の木もあり夏木立〉

 芭蕉の句である。四時のめぐりのなかに、その現場で詩をみつけること、それが「不易流行」につながる。そんなふうにして、芭蕉の句は、鍛えられていったと勝手に理解している。

 家をとりこわして、更地になった、そここに草花は元気よく生きている。「夏草」の季節へと、ますます勢いを増している。

  〈夏来たるぷくぷく神は生(あ)れましし〉
2012-04-23 10:11 | 記事へ |
2012年04月20日(金)
いちはつと鳶尾
  〈いちはつの花咲き出でて我が目には今年ばかりの春ゆかんとす〉

 正岡子規晩年の病床にあって詠んだ歌であったかと記憶している。昨日、いつも利用している駅で、改札近くの陳列ケースに生花があって、「鳶尾」と書かれた小さな立て札があった。それには、「いちはつ」とふりがなが添えてあった。菖蒲(あやめ)に似た感じで、ひとつの軸からわかれた三つの花は、まだねじられるように巻かれていた。

 ああ、これがさきの子規の歌の「いちはつ」なのだと、その存在をまじかに知り得て、いささか得をしたような気分だった。それにしても、なぜ「鳶尾」と書くのか、それは、わからない。「虎杖」と書いて「いたどり」と読んだり、「石蕗」と書いて「つわぶき」と読んだりするように、たぶん特殊な当て字かと思った程度であった。

 「たんぽぽ」は「蒲公英」、「かたばみ」は「酢漿草」と書く。漢字漢語のことばと仮名和訓のことばとでは、ずいぶん印象がちがうわけだが、漢字検定の問題のように、日常見慣れない漢字漢語の読み書きができるかどうかは、さして問題ではない。それは、ある意味、クイズや雑学の領域の知識である。

 坪内稔典の句に、春の七草を読んだ、対の句がある。

  〈せりなずなごきょうはこべら母縮む〉
  〈ほとけのざすずなすずしろ父ちびる〉

 実感に裏打ちされた、なかなかに力技の名句であるが、ここに詠まれた七草に漢字をあててみると、どうなるか?はなはだ異様な句になることは、まちがいない。

 これら七草は、いずれも身のまわりによくを見かける食材であり、いわば、生活のなかの季節のことばであった。せりの旬の香りやすずな・すずしろの若やかな味わいをボクは、生々しく思い出すことができない。ながらくそんな草たちとの生活から遠ざかっている。

 生活のことばを取り戻すこと、知識としての文字のことばではなく、コミュニケーションのなかに息づく、ボクらの五感に結びついた、生きたことばをゆたかにすることが大切である。

 そういえば、ボクが小さな少年のころ、家の土間に「おくどさん」があり、そこで、正月前には、せいろから石臼にあけられた蒸し米を父が杵でつき、母があどをとっていたし、端午の節句には、母が餡子を炊いて柏餅を作ってくれていた。柏の葉っぱの感触は、いまもあざやかに思い出される。夏には蚊帳がつられ、ときには近所でつかまえてきたホタルを放ったこともあった。

 台所がキッチンとなり、神棚や仏壇がそのところを得なくなってきて、住まうこと、そのことが大きく様変わりし、生活のことばがにわかに貧弱となり、ボクらの生活しているという感覚は、いよよ鈍摩してきているのではないか。

 ことばは、広く深く、長らく蓄積された生活の問題である。そこのところをじっくりていねいに考えてみなければならない。

  〈祖母がいて春も暮れゆく土間納戸〉
2012-04-20 20:48 | 記事へ |
2012年04月19日(木)
たのしとおもしろし
 たのしは、手伸し。おもしろしは、面白し。楽しいと、からだが動きだし、うきうきした感情に、こころは弾む。わかったとき、何かが閃いたとき、パッと顔が明るくなる。

 ともに、たいへん古くから使われている「にほんご」で、その違いについて、いまから三十年以上前、大学の講義で先生から聞いた説明が、さきほどのような次第である。明解である。

 では、うれしは、どうなのか? 何にゆえんがあるのか? たのしとは、どうちがうのか? あらためて考えると、わからないことばかりだ。

 「うららか(うらら)」となんらかの縁はあるのか?「うるうる」「うるはし」の「うる」と関係があるのか?

 「うらがなし」や「うらさびし」の「うら」は、「裏」であり、内側を意味する「浦」と関係があり、「こころ」をあらわす接頭辞である。

 インターネットにある情報だと、「うれし」の「うれ」は、こころの内側「うら」から深くよろこぶ気持ちによるようだ。「うるむ」「うるはし」は、つやつやと潤いのある感じをあらわしているらしい。

 雷鳴とどろくような恐怖感は「おどろおどろし」、ぴったりフィットする心地よさは「つきづきし」である。

 「らうがはし」「にぎははし」に「すがすがし」「まめまめし」など、「はし」系の形容詞、畳語系の形容詞は、あまたあるが、「はしきやし」は、どうなのか?

 またあらためて、調べてみたいが、「かなし」が「かなしい」になり、「かなしき」が「かなしい」と同じかたちになった現代、活用語尾のカ行の子音が落ちてしまったことは、口惜しきことのひとつである。

  〈さみどりにうれしたのしき若葉かな〉
2012-04-19 10:31 | 記事へ |
2012年04月17日(火)
蝙蝠(こうもり)が飛んでいた。
 バス停に佇み、バスを待ちながら、向かい側のバス停に見える桜の花ざかりをながめていた。「かはたれ」どき前の少し明るいこの夕べの空に、三つ四つとコウモリが飛び回っている。なんだかひどく意外な感じがした。久しぶりに見たようなおもいとともに、こんな街中にもコウモリは飛んでいるのだとの感慨が去来した。

 コウモリは、かつて「かはほり」といっていたのではないか。蕪村の句に、コウモリのことをよんだ句があったかとおもうが、いまそれを思い出すことができない。

 ボクらの世代は、コウモリと言えば、アニメの黄金バットがすぐさま連想される。かつて、黄金バットは、紙芝居の代表作だったと知ったのは、ずいぶん大人になってのことだった。

 1960年生まれのボクらは、いわゆる高度経済成長のなか所得倍増計画の施策の進行とともに大きくなった。ボクは、瀬戸内の造船所のすぐそばの家で少年期を過ごした。たしかに大半の家が貧乏で、ショートケーキを買うような家は、ごくわずかだった。しかし、1964年の東京オリンピックを境にして、テレビは普及し、草創期のテレビアニメーション全盛時代へと驀進していった。

 70年に大阪の吹田で、万国博覧会が開催され、月の石の展示がとりわけ注目を集めていた。空前の入場者を数えたという。しかし、ボクの家は、それに出かけていない。田中角栄の「日本列島改造論」、オイルショック、公害問題があり、テレビでは歌のアイドルが盛んに登場し、バラエティー番組がしきりに放映されていた。

 ハンバーガーショップや24時間営業の牛丼店を皮切りに、いわゆるコンビニ文化がその裾野を広くし、バブルに踊り踊らされた後には、ネット時代が待っていた。「インターネット」という真新しいことばが世に広まり、あらゆるシステムがその威力に席巻され、今日に至っている。

 あまりに急速すぎる多様なメディアの技術革新のただなかを翻弄されながら、ボクらは、ある意味、無邪気に、無責任に生きてきたとボクは感じている。リサイクルのおまじないを唱えながら、今日もまた莫大な、処理に困るゴミを生産しつづけている。

 「リセット」ということばは、そんな現代生活が生み出した、危険極まりのない「にほんご」である。ネットもスマホも原子力発電もなかった時代の「にほんご」の生々しさとその風景をしっかりと考えてみたいとのおもいが募っている。

  〈ちちははの国のことの葉さきはひて〉
2012-04-17 11:09 | 記事へ |
2012年04月15日(日)
ことば・にほんごのこと
  〈わが宿のいささ群竹(むらたけ)ふく風の音のかそけきこの夕べかも〉

 「かそけき」は、いま、あまり使われないが、ボクの好きな形容詞である。繊細にして静謐な感じがいい。

 「うたてき」「こちたき」は、否定的な感情を表しているが、優にやさしき感じがこれまたいい。

 「のどか」に「ほのか」、「おおどか」に「いたけだか」は、ともに形容動詞の語幹である。「たおやか」「まろやか」「こまやか」「しなやか」「さわやか」など、「やか」系のことばはたくさんあって、心地よい。

 「うずうず」「やきもき」「はらはら」、こうした品詞としては副詞に分類されるオノマトペもまた、形容詞や形容動詞と同様に、ありさまや状態をあらわす、にほんごである。

 「はる」も「はな」も、「なつ」も「そら」も、「あき」も「かぜ」も、「ふゆ」も「ゆき」も「みづ(みず)」も「あめ」も、ボクらの生活の根幹にかかわる基本語で、これらのことばは、品詞としては名詞に分類され、和語とよばれる、たいへん古くから使われている、にほんごである。

 ここまで、「日本語」と表記せず、「にほんご」としてきた。「日」は、漢字音としては、呉音で「ニチ」、漢音で「ジツ」である。「日記」は、「ニッキ」「ジッキ」と促音化する。その段でいけば、日本語は「ニッポンゴ」であるが、「土左日記」の冒頭で、「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」とある本文の「日記」は「ニキ」と読まれることからすれば、「ニホンゴ」でもよいことになる。五拍の「ニッポンゴ」と四拍の「ニホンゴ」のどちらでもよいようだが、ボクは、促音化をともなわない「ニホンゴ」をよしとしている。ただし、「日本」は、「ニホン」よりも「ニッポン」と四拍で読むようにしている。これまた、どちらでもよいようだが、数詞をともなう言い方があるので、その固有性にかんがみて、「ニッポン」をよしとしている。ヤーパン、ジャポン、ジャパンなどとの響きからしても「ニッポン」がよろしいようにおもう。

 ニッポンのことばである「にほんご」を大切にしたいと、このごろ、しきりにそうおもうようになってきた。「お国ことば」と称される、いわゆる方言や地域語も、ボクらの「にほんご」である。いわば、知的財産ともいうべき、価値ある保護・保全の対象である。にもかかわらず、いわゆる共通語から下に見られ、訛ったことばとされてきた歴史がある。

 方言は、話しことばである。というか、話しことばのコミュニケーションにおいて成立する。山形の「さんなねことは、さんなね。」という一文をこのように文字にしたところで、その情感をともなったニュアンスは、伝わらない。その場その場で消え失せることば、しかし記憶に残ることば、それもまた、ボクらの「にほんご」である。

 歴史のあることば、生活にたしかに裏打ちされたことばの世界をゆたかに耕していくこと。「知らねーよ」「バッカじゃない」「やばっ」「超いけるー」とかといった、尖ったギスギスしたことばではなく、もっとやさしい「にほんご」があることも知らなければならないし、使ってもみなければならない。

 それにしても、今年も、「行く春」の気配を「水鏡」のおだやかさに感じる季節となった。

  〈たんぽぽや早ようお帰りいってきます〉
2012-04-15 11:48 | 記事へ |
2012年04月12日(木)
陰陽の仕組み
 日が一日一日と長くなってゆく。それは、太陽の日射時間、すなわち「陽」の勢力が日増しに強くなっているということである。

 このところ、急にその「陽」の力が肌に感じられるようになってきた。大地や草木に蓄えられてきたエネルギーは、きっと加速度的に高まっているにちがいない。まさに、陽気がよくなったわけである。

  〈世の中は三日見ぬ間に桜かな〉

 江戸期の大島蓼太(りょうた)の句である。晩春の陽気を見事に言い当てている。

  〈行く春を近江の人と惜しみける〉

 芭蕉の句である。行くものは、「行く年」についで、やはり春がいいようにおもう。「行く夏」も「行く秋」も、どこかもの悲しい。まして、「行く冬」では、音韻の運びもしっくり来ない。「春過ぎて夏来るらし」とうたわれたように、「行く春」には、来るべき夏への勢いがあり、その名残は、また格別である。

 いまさら言うまでもなく、最も日の長いのは夏至である。その日は梅雨の最中である。生物の命を支える水が雨として、これまた盛んに降り続く時期に、太陽の照射時間は、夏至を境に少しずつ短くなっていく。このことは、実は、意外と気づかれていないのではないか。

 梅雨明けから夏が始まるようにおもわれているから、気温の具合で猛暑の8月が夏の盛りのように感じられてしまうから、日の長さには気づきにくい。日が短くなったと気付くのは、秋も深まりをみせる10月ころ、ないしは、彼岸すぎの9月下旬のことである。かつての運動会シーズンが、そのころになるのではあるまいか?

 明るさは、好ましく受け取られるから、あまりそのことに頓着しないが、あたりの暗さが目立つようになる秋の日は、それこそ、「釣瓶落とし」とたとえられるように、急激な変化におもわれる。

 かの吉田兼好が『徒然草』で述べているように、春のなかに夏が兆し、夏のなかに秋は兆している。やむことのない絶えざる変化がつねに起きている。そのことは、潮の干満にたとえられてもいる。微細な変化はわかりにくいが、ある一定の水準の変化、あるいは容態の変化には目を留める。潮の満ち来るさまについて、吉田兼好は、潮が満ちてくるのは、前からではなく、むしろ足下からであるとも述べている。

 潮の干満は、地球の衛星たる月との関係で生じる起潮力(太陽の起潮力も含む)による現象である。月の満ち欠けにもとづく暦は、太陰暦である。「陰」は「蔭」となると「かげ」である。

 「陰陽」は、いわば光と影の関係であるが、太陽と月との関係で言えば、照らすものと照らされるものともなるが、ことをミクロの世界で考えるならば、太陽にあたるのは原子核であり、月は電子に相当するとも言える。これをさらに、微細な素粒子の世界では、反粒子と「対(つい)」になるかたちで存在しているとされる。電流の流れは、生成するプラスとマイナス間の電荷の相対的な差に起因する。陽をプラスと言おうが、陰をマイナスとしようが、実は、見方を反対にすれば、相対的には同じことである。

 「陰陽」は、相反する性質の競合である。あるいは、相対するエネルギーのバランスである。押し出せば押し返し、引き返せば引き戻す、その力関係のなかでつねに運動をやめない。というよりも、運動そのものである。

 地球は、太陽を基点に自転しながら公転し、月は、地球を基点としながら自転している。あらためて、その不思議に驚かないではいられない。「月日は百代の過客」として、このいまも時々刻々と回転しているのだ。そうおもうと、実に、厳粛な気持ちになる。

 「陰陽」の仕組みというか、その理法の世界に深く親しみ、わが命の循環という問題に思惟をめぐらしてみたい。ゴーギャン風に言うならば、ボクらは、どこから来て、どこへ行くのか?そして、ボクらは、何であるのか?という命題である。限りなく極限のミクロな世界と果てしなくマクロな宇宙の交錯するところ、そこは、どこか?

 〈陰陽の理(ことわり)のなか春をゆく〉

2012-04-12 15:08 | 記事へ |
2012年04月09日(月)
何のおのれが桜かな
  〈さくら咲くあなたまかせのチンチロリン〉

 俳句をつくることに興味を持ち始めたころの自作である。かれこれ、十五年ほど前である。

  〈春の暮れウィスキーの水割りでございます〉

 これも、同じころの作である。まだエコのエの字も、言われていないような時代で、阪神大震災、地下鉄サリン事件後の日本は、負のポテンシャルが激しく蓄積しているような感じがあった。あの神戸の少年事件もあった。

 リーマンショック以前の日本は、構造改革、新自由主義のうねりのなかで、巨額のマネーや資本は東京に集中し、ただ東京だけがひとり勝ちの様相を呈していた。

 森有正の「経験」論のことほどでもないが、ボクらは、時代から促され、その促しのなかで、自己を形成し、価値観を共有するわけである。が、しかし、基底たるそれに対しては往々にして無自覚である。かつて下部構造と上部構造による思弁の方法を学んだが、モノのありようと生活の様式は、不可分の関係にあることは、いまさら言うまでもないことである。

 携帯電話は、スマホの時代に入った。いよいよボクらは、端末化している。巨大なネットワークのなかで、ひとつひとつの結びめとなっている。知らず知らずうちに蜘蛛の巣の構成分子となり、支配と管理を強化、先導する役割を担わされている。選択する自由が拡大しているようにおもわされながら、ますますそのシステムに絡めとられているのだ。

 中原中也の詩に、「丸ビル風景」と添え書きされた詩の一節に、ぞろぞろぞろぞろと昼休みにビルから出てくる勤め人の光景がうたわれていた。標題の「何のおのれが桜かな桜かな」と呟くようなことばが、それである。無機質なまでに等質化した人間は、いわば粒の集合体である。チャップリンの描いた「モダンタイムス」の時代が到来していたのだ。

 明治以降、桜の主流となったソメイヨシノは、葉が出る前に散りゆく。ひとつひとつの花びらとなって飛散する。

  〈風誘ふ花よりもなほわれはまた春の名残をいかにとやせん〉

 世に、浅野内匠頭の辞世として知られている歌である。木を見て森を見ずではないが、木よりもなお小さな部分たる花、そのまた部分たる花びらに意識が向かっている。本当は、大地に根を張った樹木として生きている桜の存在そのものがまず認識されなければならない。部分は、全体のなかでの部分である。それこそ、枝葉末節が先んずれば、本末転倒である。

 ボクらは、ややもすれば、事大主義に流されやすい。メディアに喧伝されることで、なおさらその傾向は顕著となる。上滑りにならざるをえないところに、近代日本の開化があると道破したのは夏目漱石であった。また則天去私を説いたのも漱石であった。

  〈菫ほどな小さきものに生まれたし〉

 漱石の句である。ミクロとマクロ、その架橋を見極めつつ、またあらたに思索を重ねたい。

  〈ほちほちと夜に生まるる桜かな〉
2012-04-09 12:52 | 記事へ |
2012年04月05日(木)
朧月夜におもふこと
 花に嵐のたとえならぬ爆弾低気圧によって、大阪も、すさまじき風雨となった。1日過ぎて、昨日は、風があって少し肌寒くはあったものの、朧月夜のおだやかさがそこにあった。

 「朧月夜に似るものぞなき」とは、文字どおり源氏物語「花の宴」の要(かなめ)である。父たる桐壺帝の妃たる藤壺への思慕に倫落する光源氏は、宴の酔いのままに、「朧月夜」の詩句を吟ずる主を探がしあて、色好みの恋を仕掛ける。またたくの逢瀬によってつかのまの恋は成就したが、その後、危うい恋はもろくも露見し、政敵に付け込まれる隙を与える結果となってしまった。「朧月夜」の君は、政界の大物である右大臣の娘であり、光源氏の異母兄である、後の朱雀帝の後宮に入内する身であったのだ。この一件が、いわばひきがねとなって、やがて光源氏は、ひとり須磨明石へと流離の道を選ぶのである。

 桜の花咲く朧月夜は、ただならぬ気配を実は漂わせている。危険な出逢いや人生の岐路にわれ知らず踏み出しているかもしれないのだ。

  〈道ならぬ道や消えゆく朧月〉
2012-04-05 22:13 | 記事へ |
2012年04月04日(水)
さくら咲く
 〈なには津に咲くやこの花冬ごもりいまは春べと咲くやこの花〉

 待ち兼ねた〈さくら〉が一輪、二輪と咲き始めた。エネルギーは、充填されている。

 例年よりもずいぶん遅れたが、梅が先駆け、ソメイヨシノの出番となった。梅は、これから実をなしていく。ソメイヨシノは、花に満ち、新緑の若葉を繁らせる。

 〈うつろひ〉は、変化である。非連続の連続というべきか、連続の非連続というべきか。容態を変えること、それは、時間とともにある。虹にしても夕焼けにしても、絶えざる変化のなかで推移していく。

 モノゴトには、順序があり、それは、システムをなす。そこのところが、ことのほか大事なのだ。

 先日、黒マグロの生態のことをテレビ番組で放映していた。生涯泳ぎ続けることが生きることの本質なのだ。黒マグロは、泳ぎ続けることで、生きるために必要不可欠の海中の酸素を取り入れる。泳ぎ続けるための筋肉は発達し、大トロ、中トロが美味となるわけだが、その中枢は中トロの内側の血あいの部位だとのことだ。大西洋の黒マグロは、その筋肉を使って力強く編隊をなして大海を泳ぐのだ。整然と美しい光景が目に浮かぶ。

 泳ぎながら生きること、食べながら生きること、新陳代謝しながら生きること、次代へ命を嗣ぎながら生きること。もちろんほかの生き物に食べられて一生を終える同類もあまたいるわけだ。人間以外の生き物の命は、どこかつねに厳粛だ。

 作ることは、住むための作法なのだ。なのに、ボクら人間は、住むための基盤を無責任にもたくさん壊しながら生きている。

 「無為自然」あるいは「大道すたれて仁義あり」。老荘思想は、紀元前のことだ。二千年以上の歳月を長いとみるか、短いとみるか。

 ともかく、梅のことは梅に、桜のことは桜に聞くことから、あらためてスタートしてみたい。

  〈桜咲く泳いで生きる黒マグロ〉
2012-04-04 11:35 | 記事へ |
2012年03月30日(金)
さわらびの春
  〈石ばしる垂水の上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも〉

 道端に、つくし(土筆)がまっすぐ天に向かって、勢いをましている。白木蓮の蕾もほころび、しだれ桜の枝がいくぶん赤みを増したかに見える。

 芽も張るにの春が萌えている。だから、さわらびの歌が思い出されるのだ。水は温み、万物は始動する。

 しかし、それまでの準備は、ととのえられている。ボクの仕事のスタイルは、いわば泥縄式で、たいてい切羽詰まったところでやっつけている感じだ。

 木が年輪を厚くするように、循環するときをていねいに生きていくこと。地球が自転しながら太陽系の惑星のひとつとして公転しているという事実は、事実にちがいないのだろうけれども、実感することは、きわめてむずかしい。かのアインシュタインの相対性理論のなかで、慣性の法則にしたがって無限に落ち続けている果てしなく巨大なエレベーターがあって、まわりから遮蔽ないしあまりにも遠く離れているとき、その場にいる自分たちが落ち続けていることを認識することはできない。

 夜が明けて朝が来る。地軸が傾いているから四季が生じ、一年の区切りができる。当たり前のことは、実は、少しも当たり前ではない。

 光は、秒速にして30万キロメートル。光速は不変なのだ。光は、波にして粒子の性質をもつ。これらのことは、知識によって与えられた認識であるが、春の光と秋の光は、あきらかに違う。梅雨明けの日のあの白く明るい日の光は、格別の輝きだ。

 いま、イヌノフグリの小さな花がまるで昼間の星のように咲いている。屈んでしっかり見なければ、その花の形がはっきりしないような、小さな小さな花たちの世界がそこここに広がっている。みんな光を求めて、小さいがゆえに、われさきにと咲いている。

 光は、水とともに、命の源なのだ。光合成というシステムは、造化の巧を極めている。生き物のシステムは、それ自体がいわば芸術なのだ。

 傲慢になっては、いけない。ボクらが、この地球に存在していること、そのことが奇蹟なのだ。自然のモノの世界にひらかれ、その理法にしたがって、安らかに憩うこと、そのことが生を養うことなのだ。

 知り合いの料理人は、言っていた。「春は、苦(にが)みを盛れ」と。これもまた、理法。

  〈山菜の天ぷら薫る野は晴れて〉
2012-03-30 09:10 | 記事へ |
2012年03月24日(土)
春うららにて
  〈うらうらと照れる春日にひばりあがりこころかなしもひとりしもへば〉

 いま思い出せる大伴家持の歌である。五句めは、「ひとり思へば」だったかもしれない。いまは、確かめずに、そのままにしておく。

 ことばの記憶は、曖昧に流れやすい。前回の後鳥羽院の歌の冒頭は「見わたせば」であった。いまの自分が閉塞状況のなかに取り込まれていることに、あらためて気づかされる。後鳥羽院は、国見をおこなう帝王なのである。さすがにスケールが桁違いだ。

 だいぶ以前に二百円の廉価で購入した丸谷才一の『日本文学史早わかり』(講談社、1978年4月初版)を、最近、通勤の電車のなかで少しずつ読みすすめている。卓見にみちた、久しぶりに刺戟的な本である。

 同書によると、日本文学史の指標となるものは、脈々と編まれてきた詞華集としての勅撰和歌集であり、なかでも『新古今和歌集』は、はなはだ画期的であると論じている。かの『小倉百人一首』がいかに「新古今」的であることか。芭蕉の俳諧の源泉には、実は「新古今」があった。『古事記伝』の大著をものした本居宣長は、無類の「新古今」好きで、卓越した歌の鑑識眼を有していた。などなど、明晰な頭脳から導かれた指摘に心が踊る。

 丸谷才一は、後鳥羽院と因縁浅からぬ『小倉百人一首』の選者である藤原定家の歌づくりについて、万葉集の古歌が本歌となっている歌があっても、それは、実は源氏物語のなかに引用された古歌であり、万葉集の風体は、長年の歌道の稽古を経てこそはじめて学ぶことできる、遠い昔の古典であった。

 「新古今」は、日本文学史の視点からすれば、現代文学に近いというか、現代文学への詩歌の道をひらいた存在である。そこのところが大事だと指摘されて、はっとした。日本文学を本当に学ぶためには、まずは「新古今」なのだ。そこからのパースペクティブが正当な見識をひらく。長い間の過誤をただされた感じだ。

 高校の国語科の先生をしていた頃、「新古今」は万葉集、古今集の歌のつぎにあるというか、三大集のひとつだから、とりあえず数首は載せておきましょうといった添え物的な感じであり、技巧のかぎりをつくした象徴的でなんとも難解きわまる歌として敬遠していたが、ところが百人一首の歌はというと、それなりにすべて覚えておくことが、さも当たり前であるかのように指導していたのである。

 『小倉百人一首』は、「新古今」の歌の世界。なのに、『新古今和歌集』とつながっていることに考えが及ばなかった。その見識の浅薄を恥じるしかないが、「新古今」の世界が近代的、現代的であったこと、すなわち時代社会の大きな変転のなかで、万葉集を近代化した古今集をさらに越えていくことが要請されていた。王朝の華やかなりし宮廷文化はすでに失われ、虚構の物語たる源氏物語にそのよすがを求めて学ぶしかなかったということだ。その時代認識は、ある普遍なる価値へと向かう。そもそも、歌とは、何か。もはや、古今集のように「やまとうたは、人の心を種としてよろづ言の葉とぞなれりける」といったふうに、鷹揚ではいられなかった。典型化される価値、たとえば幽玄、たとえば艶麗といったふうに、個人の歌風が重んぜられるようになった。プロフェッショナルであることが求められた。家元流の歌道が確立されるとともに、それまでの歌詠みは、歌人として独立することになった。

 そんなふうに考えてみると、少し「新古今」の時代が見えてくるようだが、はたしていかに?

 「新古今」という分水嶺に立つことから、もう一度、日本文学を学びなおす必要がある。進化論的時代論や技術革新的未来志向にふりまわされていけない。

 復古ではないのだ。普遍的な美が問われているのだ。

 それならば、万葉集の詩歌とは何か?

 儀式としての歌。言霊の歌。畏怖する神に祈る歌。

 冒頭の歌だが、家持は、確かに孤独だが、その悲しみは、イザナミを失ったイザナキのこころなのだ。あるいは、番いの相手をなくした非在感なのだ。ひばりの求愛は相手があってのもの。万物は調和のなかに安定する。しかし、家持は、孤独で、安定を欠いている。いわば、危機のただなかにいる。だから、歌をもってさわりなす神に祈り、かろうじて身を守る。歌は、バリアなのだ。幸いを欠いたわたしは、十分に悲しく、穴のあいた身も同然。どうぞ、このわたしにわざわいごとが入ってくることがありませんように。家持は、うら悲しさに崩落、飛散しかねないわが身を歌の力、その霊力によって辛うじて身の保全を図るわけである。

 いぶきは、息吹きと書く。息は、生きに通じ、風をなして声となる。ことあげは、あくまでも神聖な領域に属すること。よくよくこころして言葉を選ばねばならない。

 とりとめのない展開は、最も忌むべきでありながら、なかなかに旧弊は、脱しがたい。
うちにつとめて、精進したい。

  〈待ち兼ねた白木蓮の灯りかな〉
2012-03-24 18:57 | 記事へ |
2012年03月22日(木)
お彼岸のこと
 3月20日は、春分の日。彼岸の中日であった。串カツにビールを楽しみながら、日が長くなったことにしみじみと感じ入った。

 後鳥羽院の「夕べは秋となにおもひけん」の詩句が思い出されるが、「山もとかすむ水無瀬川」まではたどれても、初句の五文字に至らない。

  〈外にも出よふるるばかりに春の月〉

  〈菜の花や月は東に日は西に〉

  〈清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みな美しき〉

 いまおもいつくままに、春の夕べの詩歌をあげてみたが、ボクにとっては、どうも月とのかかわりが深い。それはそうと、今日は旧暦の何月何日であるか?

 鳴門のうず潮を世界遺産へという働きかけが熱心におこなわれているが、「彼岸潮」は、どんなふうに起きるのか?

 このことも、またボクの知識になっていない。「桜鯛」の「うしお汁」に「鯛めし」は、以前に食したが、「桜鯛」の旬は、いつなのか、なぜそういうことなのかについても不案内である。

 これは、もちろん生活習慣や生活スタイルの問題であるが、もっと根本的には、認識形成の問題である。認識は環境との相互作用のなかでコミュニケーション行為を媒介にして、身体化され、コトバ化されるのではないか。そんなふうに考えてみると、ボクの場合、たぶんにコトバが先行し、内実が希薄あるいは空洞である。

 うわすべりに生きている。浮遊しながら生きている。どうにも、そういうふうにおもわれてならない。

 活路は、サバイバルにあるのではないかとおもいあたるが、やはりどうもそうした領域に踏み込むことは、億劫である。

 荘子の思想、思弁にあこがれるが、どう実践していくか。反骨の人たるには、それ相当の覚悟と踏ん張りが必要だ。

  〈栩栩(くく)として夢にうつつに胡蝶飛び〉
2012-03-22 09:13 | 記事へ |
2012年03月20日(火)
菜種梅雨のことから
 広辞苑によると、菜種梅雨とは、「3月下旬から4月にかけて、菜の花が盛りの頃に降り続く雨。」とある。先日の雨がそれであったと、NHKテレビの天気予報で言っていた。そういえば、天王寺かぶらもアブラナ科で、黄なる花が盛りを迎えんとしていた。

 今年の5月21日の午前7時半ころ、大阪や東京で金環日食があざやかに見えるのは、なんと800年ぶりであると、NHKの朝のニュースで小さな特集を組んで報道していた。

 メディアは、現実を構成する。これがメディアリテラシーの根幹をなすとは、いまは亡き鈴木みどりのことばであったと記憶している。テレビというメディアには、絵というか映像がなんらか必要である。切り出されたそれらは、取り立ての効果をともなって強調される。強調はイデオロギーの強化でもある。ホットメディアたるゆえんでもあろう。

 繰り返し繰り返しテレビ画面に焦点化されて登場することで、虚構たる現実は、なおさらに虚構化され、リアルな現実は剥ぎとられ、あるいは無臭化され、偶像化されたキャラクターとしてのヒトやモノが支配的な力をもって、ボクらの志向性を誘引する。あるいはファナティックな感性が誘発される。

 情報化の時代は、経済が牽引するが、古めかしい言い方をするならば、欲望が肥大化ないしは干上がっていくことで回転する。日に日に古くなっていくものは、新しい偶像にとってかわられる。

 古典は、古びない。というよりも、古びないものが古典である。同じ対象に繰り返しアクセスすること。そこに、新たな美を発見すること。しつらえられたイベントに参加することではなく、一期一会の邂逅に自己を投機すること。それは、日常が日常として成り立つ場における非日常の屹立である。

 夢から覚めねばならぬし、寝なければならない。24時間営業のネットワークやコンビニは、休まないし、休むわけにはいかない。見果てぬ夢の時間は、生き物にとっての悪夢か地獄にも等しい。

 時間にあらがってはいけないのだ。ボクらは食べていきている。情報は、けっして食べられないし、味もない。

 旬に生きること、からだに時間を取り戻すこと、それこそがエコではあるまいか。

 つながろうとしなくても、自然のなかで、いつもつながっている。むしろムダを削ぎ落とすことに美は生まれる。そして、しっかり眠ること、休止すること。それが、いま本当に必要なことではあるまいか。

 冬眠は、妙なるエコシステムであることを省みたい。

  〈ドングリの木の実もクマも春ららら〉
2012-03-20 11:24 | 記事へ |
2012年03月18日(日)
愛唱句のこと
  〈春泥にふりかへる子が兄らしや〉

 中村汀女の句。景情、ともにクリアな一句。

  〈船と岸と話してゐる日永かな〉

 正岡子規の句。子規の句は、輪郭がはっきりして、清々しい。

  〈梅が香にのつと日の出る山路かな〉

 かの松尾芭蕉の晩年の句。山路の向こうには、海があるようにおもえてならない。峠の風景として、愛好している。

 口をついて出る句、なにかのおりに思い出してしまう句。その句には、それだけの魅力が秘められている。それは何かを問う前に、その句の力を糧に、句作を試みるならば、いかに。

  〈とんきょうな声ややさしき福笑い〉

  〈手習ひの大の字たたむ春の暮れ〉

  〈山々に雪解の水はひろごりて〉

 焦点化する力、構成する力、躍動するこころをたずさえて、さらに研鑽が必要だ。

  〈しかすがにとにもかくにも春や春〉
2012-03-18 09:48 | 記事へ |
2012年03月13日(火)
春の雪に
 三月半ばにして、ひとしきりの雪に目を見張るものがあった。ふわふわとしたぼたん雪。風で流れゆくこまかなつぶのような雪。降られるままに、眺めていた。

  〈こころから信濃の雪に降られけり〉

 愛唱する一茶の句である。深い雪。埋め尽くす雪。やまずの雪。前のめりに歩を進める旅人、その人の姿が見えるようだ。なぜか心は闇のように暗いが、どこかに灯りは見えている感じだ。

〈こころから〉は、〈こころまで〉、〈こころへと〉ともちがう。心底という意味ともちがっている。「あなたからどうぞ」の「から」のように、先後の意味合いである。まずもって、〈こころから〉降られてしまうのだ。

  〈うら悲し友よ去りゆく雪の道〉

  〈別れゆく峠に雪の降りしきる〉

  〈シャッターを押して消えたる春の雪〉

 ものの順序には、意外と深いわけがありそうだ。
2012-03-13 08:55 | 記事へ |
2012年03月12日(月)
俳句に親しむ
 五七五の文学は、一行の生活詩と考えてみる。そのことは、妥当かどうか?

  〈梅一輪一輪ほどのあたたかさ〉

 元禄の嵐雪の句である。梅のつぼみがほころびて、開花のときを迎えた。それは、待ちかねた春の到来を意味する。ことほぎとよろこびの対象である。

  〈梅一輪。
   一輪ほどのあたたかさ。〉

 こう表記すれば、二行の詩になる。あるいは、また

  〈梅。
   一輪。
   一輪ほどのあたたかさ。〉

と三行詩になるし、三行目をさらに分割すれば、四行の詩ともなる。

 要は、表記の問題かともいえそうだが、そんなに単純なことでもなさそうだ。

 〈梅一輪〉は、この句の題材であるが、それだけで句題ともなる。〈梅一輪〉は、言うまでもなく、他に先んじて開花した一箇の梅の花であり、早春の到来を告げる典型たる事象である。これから、枝枝の数多くの蕾はつぎつぎに開花のときを迎える。趣きとしては、「一葉落ちて天下の秋を知る」と同工である。

 あらためて、〈梅一輪一輪ぼどのあたたかさ〉と口ずさんでみたい。梅一輪で景色は開かれた。が、これでは、やはり落ち着かない。それがどうしたのだという気持ちが揺動する。だからつぎに進むわけだが、答えは、意外にも、一輪のあたたかさへと収束される。天下の春へと向かったこころは、一転はぐらかされる。まだまだ春は遠いのだ。が、しかし、その一輪は、春のぬくもりをたたえたように明るくあたたかい。なかなかの力技の一句である。
一行詩とは、ひとつの題があって、それをめぐって問いを出し、みずから答えていく、ひと呼吸からなる文章表現ということになるであろうか?

  〈おはようさん猫すれすれの路地に春〉

  〈路地の春自転車とめてこんにちは〉

 一行詩の定義にそって、句作をつづけてみたい。
2012-03-12 12:18 | 記事へ |
2012年03月10日(土)
春の風に
 白川静博士の漢字学によると、「風」は「鳳」がもとの字であり、冠の飾りをつけた鳳は、神の化身である。

 いま春の風が吹いている。寒の戻りで冷え込んだが、確実に「春の風」である。密度がちがって、かすかにやわらかである。啓蟄を過ぎ、水もゆるんできた。

 「東風(こち)吹かば」思い出さなくてはいけない。やっと、遅れていた梅がほころび出した。刻印された3.11。大地が軋み、巨大な津波が走りだしたとき、どんな風が吹いていたのか?

 後戻りしない風、過ぎ去っていく風。

 比喩としてではなく、「風の便り」を確かにきかなくてはいけない。

  〈失ひし言の葉ごとに春の風〉
2012-03-10 10:28 | 記事へ |
2012年03月09日(金)
春の雨
 春の雨は、人待ちの雨。

  〈君待てば三月の雨蕭蕭(せうせう)と〉

 この句をつくって、もうずいぶんのときが経つ。

 大学四年になる春休み、広島の宇品港からフェリーに乗って大阪までやってきて、吉野に向かい、明日香や奈良を歩いた。長谷寺に参拝したときは、煙ぶるような春の雨だった。ここに清少納言も参籠に来たという。回廊式のゆるやかな階段を登り、本殿にお参りをしたあと、寺内のお庭で愛しき人と立ち並んだところを写真に撮ってもらった。ときに春の雨は、なおも、音もなく煙ぶっていた。

 いまにしておもえば、観音のおみちびきであったのかも知れない。

  〈うれしやな御加護にけぶる長谷の春〉

 春は、待つことから始まるのだ。
2012-03-09 10:58 | 記事へ |
2012年03月08日(木)
春日狂想

 明治のはじめに、西洋暦が導入されて、いまの弥生とそれ以前とは違ってしまった。かの松尾芭蕉は、元禄二年(1689)の弥生も末の七日の日(27日)に、幻の巷に離別の泪をそそぎ、旅立った。新暦では、5月の半ばのころであったとか。

 改元されて、時代が画されるように、太陰暦にもとづくカレンダーは、いにしえのものになってしまった。そのことが日本文化の持続をある意味で断絶している。が、しかし、自然の摂理にもとづく感覚は、生きている。

 きさらぎ2月は、春半ば。一気にたけていく春に向かって加速している。

  〈きさらぎの水は流れて来たりけり〉

 騙されては、いけない。記号化した制度は、ボクらを支配している。時刻表は、つくられているのだ。時間通りに来ない電車に腹をたててはいけない。

 もう一度、自然の時間に深く呼吸をしよう。やすらけくもたおやかである、当たり前の時間に眠り、目覚めよう。

 醸される水の時間、花ほころぶ命の時間。時はめぐる。いや、めぐるから時をなすのではあるまいか。

  〈ここはここここへここへと来る弥生〉
2012-03-08 11:34 | 記事へ |
2012年01月17日(火)
三界の火宅
 火宅とは、「(煩悩が盛んで不安なことを火災にかかった家宅にたとえていう)現世。娑場。」(広辞宛)を意味する。三界は、「一切衆生の生死輪廻する三種の世界、すなわち欲界・色界・無色界。衆生が活動する全世界を指す。」を意味すると、同じく広辞宛には記されている。「三界の火宅」は、透徹した抽象の思考によって導かれた、いわば理念の世界であるが、なぜか生々しく感じられる。哲理とは、そういうものかもしれない。

 いまのボクは、果たして「三界の火宅」に生きているのか。生きることは、とりもなおさず「三界の火宅」にあるということなのだけれど、一方でどこかフワフワとして、とりとめがない。要は、切実ではないのだ。

 檀一雄に「火宅の人」という作品がある。無頼派の系譜であったかとおもうが、いまだ読んだことがない。文学すること、そのことに「三界の火宅」の本当の意味を知る端緒を見つけたい。
2012-01-17 10:50 | 記事へ |
2012年01月09日(月)
往来物とは
 『庭訓往来』(ていきんおうらい)や『商売往来』などのいわゆる「往来物」といわれる書物は、リテラシーとして文字を習得のための手習いの教本であると同時に、生活や経営に必須必要なことば(語彙や言い回し)を学び身につけるための読本でもあった。その伝統は、明治のはじめころの教科書の体裁にも引き継がれた。

 「応酬(やりとり)の書翰の文案を記したる書に名づくる語」としての「往来」とは、「往き来」のことであり、その「往き来」の場所や「往き来」されるモノの謂(いい)でもある。また別の言い方をするならば、「交通」のことであり、それは、こもごも通うこと、すなわち通じ合うことという意味において「コミュニケイト」という所為であると同時に、その事態としては「コミュニケーション」ということでもある。

 したがって、問題となるのは、「手紙」によって誰の何がどのように伝達され、「手紙」の相手とどのようなコミュニケーションが成就、達成されるのかということである。

 社会生活や経済活動を営んでいくうえで、「手紙」のやりとりは、欠かすことはできない。挨拶、報告、依頼、請願、祝賀、弔問など、礼節は、重んずべきである。礼節を欠くことは、その人や組織にとって、信用や品格を下げることにもなる。そのため、この場合には、こう伝え、それに対して「手紙」の受け手は、こう返すのが、ひととおりの儀礼にかなった書き方であるといった文例集が用意されるわけである。

 「往来物」は、そのようなものの典型であり、往信と返信とが一対となって構成されるのが基本である。その実際は、状況に応じて、応用することになる。これまで、「手紙」は型どおりに書くことがまずもって重視され、それゆえに反面、真情にかける文として批判もされて来た。戦時中の「慰問文」や時候の挨拶状は、その代表である。

 無理やりに書かされる「手紙」、必要に迫られて書く「手紙」、書きたくて書く「手紙」、書かずにはいられない「手紙」。その実情は、さまざまではあるが、伝えられることばの質は、やはり違ってくる。

 つづりかた教育は、歴史的には、読み書き算のリテラシーを育成するための「往来物」の教育の系譜に位置づけられる。廣田早紀は、入門期の一年生のつづりかたとして先生から子どもへ、子どもから先生への「てがみ」を軸とする教育実践を展開し、めざましい成果をあげている。子どもたちの書きたい、知らせたいと意欲するこころがこの実践のキーになっている。生活者のことばを育てる教育は、「手紙」の指導に根拠をもって前進すべきかとおもわれる。
2012-01-09 16:44 | 記事へ |
2012年01月03日(火)
手紙とリテラシー
 日本の最古の手紙は、国書として漢文で書かれていた。紙は貴重品であり、布や竹や木片などに文字は記されたりもしていた。いまや、電子メールの時代である。絵文字や顔文字、さまざまなデコメやフォントを自在に駆使して、カラフルで個性的なメールを楽しむことができる。

 かつて、生活つづりかたの教育に対して、「手紙ひとつ、ろくに書けなくて、どうして教育か」といった批判が向けられたことがある。手紙を書くことは、日常生活上、あるいは社会生活上、必要不可欠なリテラシーであったし、教育の水準をはかるバロメーターでもあったといえる。いわゆる「往来物」といわれる書物には、時候のあいさつから物品の授受や貸し借り、祝賀や誘因などにかかる文書など、文字のやりとりを通してひととおりの社会人として生活を営んでいくためのリストが連ねられている。いわば、社会常識、おとなとして備えるべき「たしなみ」というものが「手紙を書くこと」に集約されていたといえる。別な言い方をするならば、ときと場合に応じて、「手紙を書くこと」をとおして「おとな」として認知され、社会化されたということになる。手続きを踏まないいきかたは、人道にはずれた、礼を失したことになるわけである。

 そう考えると、「手紙を書くこと」は、なかなかに骨の折れることでもあったし、なまやさしいことではなかったわけで、代書屋の存在もゆえあることでもあった。いまでさえ、お礼状の執筆に苦労する大学生も少なくない。

 ところで、手紙は、私信でもあって、口で言えないことや直接には話し伝えることが困難な状況で、話しことばの代わりとして、相手に届けられる文字のことばが、気持ちや用件を伝達するコミュニケーションのことばとして機能する。

 野口シカが、ニューヨークにいる息子・英世に帰省をうながす仮名文字ばかりの手紙は、よく知られている。表記としては、促音や撥音など相手が補って読解しなければならない箇所がいくつもあるが、せつせつとした心情にあふれていて、子をおもう母の切実さに第三者であるボクも、胸をうたれるものがある。ちょうど、文字の使用に不慣れな幼子が、やはり懸命に文字にして親愛なる相手におのが心情を吐露しているのに似ている。形式を踏まえているかどうかや文字の巧拙といったことが問題なのではない。真率なる心情に裏打ちしてされたことばがそこにつづられているか、そのとおりに表現されているかが第一義の問題なのである。

 そうなれば、もはや指導の範疇を越えている。もちろん、社会常識として、通信文の形式や書式は指導しなければならないし、ひととおりの型に従わせねばならない。しかし、それで、手紙を書くようになるかどうかは別の問題である。文字を読んだり書いたりすることができるということと、すすんで作文を書いたり読書したりすることとは、別である。

 ことは、言語生活というか、ことばを日常的にいかに駆使するのかという問題につながっている。
2012-01-03 17:01 | 記事へ |
2012年01月02日(月)
手紙の指導
 小学校の国語教科書には、学習指導要領にしたがって、「手紙を書くこと」が必修事項としてページが割り当てられている。そこでは、模範文例が掲げられ、形式上、踏まえなければならないポイントが明示されている。しかし、送信者の立場からの文例に偏っている。本来、手紙は、往復してこそ意味がある。返事のない手紙は、やはり不自然である。いかに返すかということもまた重んじられなければならない。出せばよいというものではあるまい。

 だから、「読むこと」の授業で、登場人物に宛てて手紙を書くことがよくおこなわれるが、登場人物から本当の手紙は返されないのだから、気をつける必要がある。いっそ、それなら、登場人物から読者への手紙を虚構として考えてみる手もある。「おおきなかぶ」の「おじいさん」は、どんな手紙をみんなに書いてくれるだろうか?

 わしらの「おおきなかぶ」を抜いた日の話を読んでくれた一年生みなさん、わしは、みなさんに是非とも聞いてほしいことがあるのじゃといったぐあいに場面設定をしてみる。それで、一年生のひとりひとりが「おおきなかぶ」の「おじいさん」になってみて、その伝えたい内容を書く。なかなかすんなりとはいかないかもしれないが、とにかく書かれたことばは、手紙として、みんなに届けられている。そこで、自分以外の「おじいさんの手紙」に返事をかいて、その「おじいさんの手紙」を書いた当人に届けるというふうに運ぶ。そうすると、必ずやさまざまな返事が届けられることになるという次第である。

 かなり横道にそれてしまったが、手紙や手紙をとりいれた指導において、肝要なことは、往信と返信が一体となって取り上げられなければならないということである。
2012-01-02 09:22 | 記事へ |
2011年12月30日(金)
ハガキと手紙
 向田邦子の随筆に、「字のないはがき」がある。中学校の国語教科書に掲載されていた。いまも掲載されているようにおもうが、戦時下、疎開先の幼い娘に、宛名の記されたハガキをたくさん持たせ、毎日のようすを○印で家族のもとに知らさせるという話である。

 ハガキには、封がなされていない。字ずらがあらわである。ボクの初恋は、暑中見舞いのハガキから始まった。離れて暮らしていたから、容易に電話できるような状況ではなかったから、ボクにとっての恋文は、ハガキから封書へとなって、ときにはとにかく声が聞きたくて電話をかけることもあった。一年近く、ふみのやりとりをした。いまも彼女の記していた文字を思いおこすことはできるが、いわゆる「文通」や「ペンパル」ということばが生きていた時代に、ボクは、おかしな文学青年だった。

 当時のボクは、下宿していたこともあって、孤独というか、四六時中、自分だけに向き合っているような毎日だった。そのため、眠りにつく前に、日記を記すことが習慣となった。いまもその日記を記した何冊もの大学ノートを所持しているが、そこには、「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」に閉ざされた自我のかたちが狂おしいまでにあらわである。

 ふみとして書き記し差し出されたことばと差し出すことをしない書簡体のことばとは、あきらかにちがう。ボクは、差し出さぬ手紙のなかで、愛称をつけて彼女の名前を記し、彼女に呼び掛ける。なかば自由を得たボクは流暢ではあるが、書きたくても書けないことば、どうしても書いてはいけないことば、うらはらに書いてしまうことばにつまずきながら、孤独をひらく通路を探していた。所詮、手すさびのことばは、宙ぶらりんである。ことばは、相手に届けられねばならない。相手に届くことによって相手から返されることば、あるいは相手から届けられることによって、こちらから相手に返していくことば、それが現実の相聞のことばである。

 夢の通い路ならぬ、うつつなるおもいの通い路が、本源たる手紙のかたちではあるまいか。ハガキとて、なかば同じことではあろう。ただ、やはり、ことばは封じられてこそのものである。そこのところが、実は、存外に大切なのではあるまいか。
2011-12-30 12:31 | 記事へ |
2011年12月28日(水)
ふみを書くこと(つづき)
 手で書くこと、手紙のばあい、その所作を「つづる」あるいは「したためる」ということがある。文字をつづり、文(ふみ)をしたためること、それは、ボクにとって、縦書きである。筆記用具は、筆ペンか万年筆である。

 あふれるおもいのままに、便箋に文字を記していく行為は、どこか厳粛である。大学生のとき、サークル活動で電動ロクロを使って器を成形したことがあるが、手紙を書く所為は、土を前に倒したり、上に持ち上げたりしながら、土を馴らしていくことに通底している気がする。形をつくりなす前のこの準備段階で、こころは、求心力をもって、澄んでいき、静謐な気につつまれる。

 手紙は、一気呵成に書いてしまう。あるいは、ある息づかいのつづくかぎり、勢いのままに筆を走らせる。経験として、そんな書き方をボクはしてきた。

 また、そんなふうに書いてきたもののなかには、いまも忘れがたい手紙がいくつかある。それは、人生の節目に書いたものというよりも、書いてしまったことで人生の節目となったものというべきかとおもわれる。区切りをつけるための手紙、別れの手紙が、そうしたたぐいのものとなっている。

ボクたちの暮らしから、文字をつづり、ふみをしたためる生活が希薄になってきている。メールでは、やはりいけないのだ。キーボードをたたいたり、ボタンを押したり、画面をタッチしたりするのでは、なにか抜け落ちてしまうようなものがきっとあるのだ。

 俵万智に、手紙に封をし、投函する瞬間から別の時間が流れはじめるといった内容の歌があった。いまその歌を歌のとおりには思い出せないけれど、封をすること、手紙が相手に届くようにことを運ぶこと、そこには、ためらいや不安がないまぜになって、息づいている。そして、手紙が手もとから離れた瞬間から、なにか祈るような気持ちで待つこと、その時間が始まるわけである。

 手紙には、たましいが宿っている。せつないたましいを運ぶ舟のようにも、あるいはアーノルド・ローベルの「お手紙(The Letter)」のカエルくんの手紙のように、誰かにしっかと託されて、ゆっくりとゆっくりと荷なわれていく宝箱のようなものと見なしてみてもいいのかもしれない。

   〈封をして封をされたる冬銀河〉
2011-12-28 17:11 | 記事へ |
ふみを書くこと
 由紀さおりの歌がブレイクしている。「死んでも、あなたと暮らしていたいと、今日までつとめたこのわたしだけれど」と始まる歌は、「涙でつづり終えたお別れの手紙」の文句で閉じられる。「あなた、変わりはないですか?日ごと寒さが募ります。」で始まる阿久悠の「北の宿から」は、手紙の文体を模している。これ以上、あれこれ持ち出すまでもなく、恋歌の世界に、手紙は、欠かせない。

 それは、なぜか?言うまでもなく、古くからの相聞の伝統が息づいているからであり、恋の駆け引きは、歌のやりとり、すなわちラブレターの交換により成り立っていたと言っていいからである。

 ところで、映画やドラマを感動的なものにする手立てとして、結婚披露宴の花嫁の手紙を持ち出すまでもなく、実に手紙は威力を発揮する。「北の国から」の原作者である倉本聡の作品にも、ここという勘どころで手紙が読み上げられる。

手紙には、個人の真率なる秘された感情が生々しく披瀝される。遺書や弔辞は、その極北ともいえる。それはともかく、愛や恋の手紙は、いつわりのない真実がその核心をなす。

 しかし、一方、実用に供される儀礼上の手紙や商売上のダイレクトメールといったものから、誰かを告発したり糾弾したりするためのものもあるし、単に近況を知らせるためのものなど、さまざまである。

 要は、誰か特定の相手に向けて差し出される文書やふみが手紙であると言えよう。とかく様式化された文体や書き方が注目されるが、手紙に、さしたる形式など実はないといったほうがよい。「子どものつづりかたは、教師へのラブレターである」といったりするように、好意や敬意をいだく特別な相手に差し向けられた手づからのことば、それが「手紙」の本質をなす。そう考えてみたい。
2011-12-28 09:28 | 記事へ |
2011年12月26日(月)
知者楽水
 冬至を過ぎて、日差しがこころなしか春の光を帯びてきたかとおもう。もちろん、寒波で、はげしい積雪の報も聞かれる。しかし、これから日毎に日が長くなっていくことがうれしい。ひとつ底をうって、上昇の気が立ち上っていくわけである。

 「この道は、いつか来た道」とは北原白秋の詩句であったか。大震災と原発事故の起こってしまった3月以降、ボクのなかでは、なかば時は止まったままで、あの地震以前の日常に戻ることができないことが、痛切に悲しく悔しい。津波に葬り去られ放射能に侵されたふるさとは、いまも失われたままである。

 「水」をテーマとして、水の極致たる吟醸酒に親しみ、光合成のしくみを学び、人たるボクら人間のからだの組成とか考えたりしてきた。津波も水の力であったし、冷温停止のためにも莫大な水が必要である。

 「知者楽水」「仁者楽山」は、論語のことばである。また孔子は、川の流れをみて、「逝くものは、かくのごときか」と嘆声をもらしたとされる。木火土金水の五行説にしても、ターレスではないが、「水」は、やはり基本・根源の存在である。

 「水」を考えることは、ボクらを深い思索や思惟の世界に誘う。生きること、それは、とりもなおさず実践である。確かな拠りどころを求めて、2012年、また新たな歩みを進めていきたい。

  〈年の瀬やまぼろしの舟さかのぼる〉
2011-12-26 09:51 | 記事へ |
2011年12月14日(水)
「ラムネ氏」のこと
 坂口安吾の随筆に、「ラムネ氏のこと」という作品がある。昭和16年の年の終わりに新聞誌上に発表された文章であったかと記憶している。

 戯作者として生きている己が業(なりわい)について述べた随筆の名品である。ラムネ玉を発明した人物が絢爛たる思索の持ち主であったかと推量し、キノコ採りの名人が自分の採取したキノコにあたって往生をとげてしまったエピソードから、フグ料理が料理として流通するにいたるまでには幾多の殉死者があったにちがいないことにおもいを馳せながら、「ラムネ氏」の資格について思量する。たとえたわいのない愚かしいようなことであれ、絢爛たる思索のなかで殉教への意志をもって己が人生を賭していく存在、世の常識を覆し新たな価値観を創造せんとする人物、それが「ラムネ氏」だと安吾は考える。男女の色恋、その愛を主題とする戯作者たる安吾は、逼迫する戦時態勢のなか戯作者稼業を男子一生の業として生きんとする。この随筆は、いわば、安吾のダンディズム宣言なのである。

 かつて、鬼才・寺山修司は、タバコをふかしながら霧の立ち込める海にあって「身捨つるほどの祖国はありや」と問い掛ける人物を造形した。身命を賭して生きること、それはドラマであり、劇を演じることでもある。

 覚悟と行動は、ときにうらはらなことにもなるが、悲壮ではなく、軽やかにしなやかにしたたかに朗らかそうに、「ラムネ氏」ディレッタント程度には、生きてみたいとおもうことがある。

  〈ダダっ子の汝がこころざしラムネ玉〉
2011-12-14 12:24 | 記事へ |
2011年12月13日(火)
純度をあげる
 10日は皆既月食であった。黒く欠け、やがて弓張のほそやかな月となるころには、丸くやや黄をおびた薄暗くも明るさもあるかたちが見えていた。また、そのそばには、ひときわ存在感のあるオリオン座が傾いていた。冷え込むなか、首を痛くしながら、その月や星に見入っていた。

 このところ、ことばの純度やその純度のあげかたということをおりおりに考えている。混雑物を取り除いたり、溶媒たるものを分離ないしは気化させたりするには、篩(ふるい)にかけたり、撹拌したり、蒸留したり、それ相当の手立てが必要である。では、ことばのばあいは、どうすればいいか?

 先日、お昼に環状線に乗っていて、つぎの句を得た。

  〈お団子のように並んだ冬の顔〉

 向かいに座る仲良し5人組をみて着想したものであった。ひきつづき顔シリーズの句である。その夜、推敲してみた。

  〈お団子のように五つの冬の顔〉

 団子三兄弟は串刺しに並んでいるから、「並んで」は、やはりくどい。それでそのまま数字を入れてみた。しかし、いまからおもうと、「ように」がどうも逃げた表現になっている。そうだ、いっそのことなら向かいの人物をそのままお団子にしてみては、どうか?

  〈お団子は五つ並んで冬の顔〉

 これで、いくばくか、ことばの純度はあがったといえるだろうか?それにつけても思い合わされるのが、芭蕉一門の近江の俳人・森川許六(きょりく)のつぎの一句。

  〈十団子も小粒になりぬ秋の風〉

 やはり、蕉門の句のことばは、よく鍛練されている。ボクの句は、明らかにそのパロディーである。素人は、これだから困るという次第だが、純度をあげる手立てに、鍛冶屋の仕事があることに思い至った。

 打ち込み打ち込み、鍛え上げていくこと、それもまた一方法である。刀鍛冶の名品は、いまボクか憧れる美しく純度の高いことばの最良のモデルだ。

  〈今生の月と星とが冴えかえる〉

 また鍛え上げてみたい。
2011-12-13 11:01 | 記事へ |
2011年12月10日(土)
傾いて
 昨日、古本屋さんに立ち寄って、外積みの本を買い求めた。タイトルは『レモンのチカラ』(日東書院本社)、100円だった。

 新品さながらの本が、百均のモノより安いなんて、もちろんそれだからうれしくて買ったのだが、この日本の文化の値段の安さについて感慨を覚えずにはいられなかった。

 ともあれ、この本のページを繰りながら拾い読みをしてみた。女性読者をターゲットにしているせいか、その仕立てはカラフルで、オシャレ。見開きを基本に、レモンのあれこれが、たいへんうまくまとめられている。レモンは、からだにもこころにも有用な木の実であり、果実なのである。

 その本によると、レモンの原産地はヒマラヤ東部の山麓、あるいは中国東南部からビルマ北部のあたりとか。レモンは、シルクロードを経て、ペルシアへ、メソポタミアへ伝わり、そこからエジプトや地中海沿岸のヨーロッパ諸国に伝播した。ヨーロッパへの伝播には、なんと例の十字軍の遠征にゆえんがあるとか。さらに、レモンは、またまた世界史で有名なあのコロンブスがカリブ海地方に持ち込み、そのレモンがフロリダやカリフォルニアにもたらされた。そのことは、1840年代のゴールドラッシュによる労働者のビタミンC不足対策として大量に栽培されたことに関係があるとのこと。そして日本にレモンが根付くきっかけは、明治6年・1873年に熱海にやって来た外国人に機縁があるらしい。言ってみれば、レモンは、舶来の産物であり、文明開化の輝きを放っていたのだ。梶井基次郎の「檸檬」は、やはり丸善に似つかわしいわけである。

 今日は、久しぶりに日本で皆既月食の見られる夜。地軸が傾いているから、こうした稀有の夜がめぐってくる。

 傾国の美人、ピサの斜塔、オリオン座、いずれも傾くことで、特別な見映えが生ずる。斜に構えてばかりではいけないが、傾いてこそ広がる世界もある。

 もう少しで、冬至。日はさらに傾いていく。なんだか師走の慌ただしさに追い詰められてもいるが、傾きのまにまに身をまかせるのも、ちょっとすてきなことではあるまいか。

  〈冬至へと傾くレモン抱きしめて〉

 何事も過ぎたるは及ばざるがごとしではあるが、ほどほどの角度をつけて日々過ごしたい。
2011-12-10 17:28 | 記事へ |
2011年12月06日(火)
冬じたくへ
例のクヌギの木は、すっかり落葉のときを迎えた。カサカサと乾いた葉っぱが、バス道路にふりしきる。家の庭のハナミズキも、赤い実をわずかに残しただけである。そちこちの木々は、冬じたくをはじめている。

師走12月。どこか足早に時は過ぎゆく。ボクは、ボンヤリしたまま、これといった用意もなく、いまこのブログを打っている。

昨夜のことである。日曜日に兵庫・鉢伏の宿屋で会食した松葉ガニの風味を思い出しながら、ボクらに食された蟹は海のなかで何を食していたのかと気に懸け、蟹の絵を原稿用紙に描いていた。8本だったか10本だったかの肢足は、どうなっていたか?爪のある肢足は、ぷっくりと膨れていたことは確かだが、そのほかは、どんな形状をしていたか。尖っていたようではあるが、そもそも、その本数さえが思い出せないのだから、あてにならない。

見ていながら見えていないこと、わかったつもりになっていることなど、いくらでもあるのだ。見ようとしなければ、わかろうと意志を持たねば、モノやコトの世界は、ボンヤリと虚ろでさえあると言っていい。

〈かんにんななんていうてる鍋の夜〉

そろそろ、ボクも、冬のしたくをはじめたい。
2011-12-06 10:54 | 記事へ |
2011年12月01日(木)
クヌギの木も
 いつも乗車しているバス停のそばに、クヌギの木がある。その木の近くには柚子の実もなっている。

 昨日テレビで接したAKB48の「風は吹いている」の楽曲が、妙に説得力をもって迫ってくる。パソコンでダウンロードして繰り返し繰り返し聴いてみた。

 その歌詞は、言わずもがな、秋元康の手になる。変わり果てた瓦礫の大地に立ちつくし、ことばを失った人間の未来への希望を歌っている。あきらかに大震災がイメージされている。「なにから先に手をつければいいのか」「誰からさきに抱きしめればいいのか」「それでも未来へ風は吹いている」「それでも愛は未来へ続いている」「頬を伝う涙は命のいぶき」「そこに忘れられた希望を拾って」「一歩一歩歩み出す」のである。

 時代のキーワードが見事にちりばめられた歌詞の世界は、一方でどこかバーチャルな異空間を表現している。歌詞の主人公は、ジャンヌ・ダルクのように勇ましくありながらも、絶望にうちひしがれ、未来へ向かって強く生きることへのためらいやとまどいを胸に、風が吹いている未来へと愛し合うぬくもりを求めて一歩を健気に踏み出していく。アイドルとしてキャラクター化されたAKBの個々のメンバーのイメージをオーバーラップさせながら群像としての戦士たちが彷彿と浮かび上がってくるのである。そんなサバイバルな世界は、ゲーム世界の常道である。

 本来、風は吹き来るものである。未来へと吹いている風は、なかばバーチャルな風である。

 もちろん、AKB48に時代の風は吹いている。「風にふかれて」「風の谷のナウシカ」「風の盆」など、風は、ひとつの象徴である。白川静博士のご研究によると、風はもともとは鳳凰の象形で冠や飾りをつけた鳥をあらわし、神の化身として畏れられていたとのこと。

 昨夜は、ひどく風が吹いていた。音を立てながら、吹き付けていた。そして、今朝、その風はやんでいた。ナチュラルであること、そのことの大事さをこのところ、よく考えている。無為自然は、老荘の思想であるが、われわれの暮らしが、どこかあまりにもナチュラルであることから乖離、あるいは離反しすぎてはいないかとおもうのである。

 クネギや柚子のナチュラルな美しさに、ぼくは、ナチュラルに感動している。

      〈ときじくの木の実に風は十二月〉

2011-12-01 11:01 | 記事へ |
2011年11月30日(水)
もみぢのこと
 赤や黄の葉っぱが木々を彩り、また落ち葉がそこここに風情を添えている。

 銀杏の燃え立つような黄色に「黄落」という季語を一番に思い出す。また桜の葉っぱは、黄から紅へと色を変える。毎年、これはという完璧に美しい黄色の葉っぱをさがしているが、なかなかに見つからない。

 この黄色は、葉細胞の葉緑体に含まれる光合成色素であるカロテノイドに由来するとか。緑色のもとであるクロロフィルが分解されて機能しなくなると、比較的分解されにくいカロテノイドがまさって、葉っぱは黄色に見える。さらに、新芽が調い、葉っぱがその生を終えんとするや、 赤の色をなすアントシアンが合成されて紅葉となり、落葉へと向かうのだと、ものの本に書いてあった。

 銀杏が黄色のままに落ち葉することが気にはなるけれど、葉っぱがおのが役割を終えて、美しいサヨナラの挨拶をして、去りゆくわけだ。知り合いの先生が滅びゆくものの美について語っておられたことが印象的だが、万葉のころ、色づく秋山は死にいくもののための場所でもあったようだ。

 もみぢには、静かな慎み深い祈りをもって対したい。

  〈いざさらば祈りは深しもみぢの葉〉
2011-11-30 11:42 | 記事へ |

2011年11月29日(火)

絶句を写す。
  遲日江山麗 遅日 江山 麗しく
  春風花草香 春風 花草 香し
  泥融飛燕子 泥は融けて 燕子飛び
  沙暖睡鴛鴦 沙は暖かにして 鴛鴦睡る

 杜甫の絶句である。

 絶句は、起句承句転句結句からなる四行詩で、転句がポイントとなって、前半と後半でその景色は分かたれ、それゆえに構成の美が生まれるのである。

 春の自然はひろく光にあふれ、東からの風は心地よく、花や草は萌えたつままにかぐわしい。この二句で、遠景近景にわたって、ゆるやかに胎動するが春が写しとられている。
 川はゆるやかに流れ、風はそよぎ、光はあふれ、春律に萌えたつ山はさみどりに美しく、そこここの草や花は笑うがごとく歌うがごとく伸びやかに、芳しい。
 やすらかである。

 さて、転句。田園交響楽がかなでられているなかに、何を配すか。何を際立たせるか。農耕や宴会などの人事か、より微細なる蝶や虫の生活か、はたまた寺社や家屋のたたずまいか。

 杜甫は、鳥を選んでいる。春の自然にうながされて飛来する燕と仲睦まじく水辺の砂に憩ひ眠る鴛鶯。動と静。
 変わらぬ春の摂理は、やすらかで生命の躍動する夏へとめぐりゆく。人たるわれは、いかん?

 春を迎えることは、齢を重ねることでもある。杜甫は、どこにいたのか?流離の身であったか?
 幾重にも陰影を帯びてもくるが、絶句は四行詩であり、日本の近代詩でいうなら、二連構成の詩である。

 絶句を写すことは、書くことであり、その構成に従って考えることでもある。そして、その現代語訳は鑑賞そのものである。原稿用紙に詩とその訓読を書き付け、また別の日につらつらおもいをめぐらし、現代語訳を書き出していくこと。

 これはこれで、また楽しからずやといったおもむきである。
2011-11-29 12:09 | 記事へ |
2011年11月24日(木)
書くこと
 このところ、原稿用紙に万年筆で、縦書きに字を書くこと、そのことを大事としている。昨日の「顔の話」は、「顔、横顔」と題してつれづれなるままに記した書き物により、携帯でおもいつくままに作成した。

 「象の尻」の句は、唐突に浮かんだものであったが、今日、手帳を繰りながらこのところの記事を書いていたら、一週間ほど前、つぎの句をメモしていた。

 〈不景気の顔を並べて冬どなり〉

 〈コーギーが尻をふりふり時雨坂〉

 いずれもちょっと取り合わせただけの駄句であるが、わたしのまなざしは、このところ、「顔」と「尻」に注がれていたのだ。

 もちろん「象」にもゆえんがあった。学生から教えてもらった『どうぶつ句会』(あべ弘士)を最近読んだばかりで、アフリカ象が登場していた。

 書くことは、日々の想念をつなぎ、わたくしのかたちをあからさまにしてくれるのである。しかし、この文章は、今日も、電車通勤の途次、携帯で打ち込んでいる。

 はてさて書くことは?
2011-11-24 12:07 | 記事へ |
2011年11月23日(水)
〈題材〉ということ
表現行為は、何かを表現する行為である。

「顔」について何かを表現したいとおもったとして、何を表現するか?

「男の顔」について表現するか?「犬の顔」にするか、はたまた「車の顔」にするか?やはり、題材は選ばなければならない。

「彼は、わが社の顔ですよ」なんて言ったり、「顔を貸せ」とか「顔負け」「顔出し」「顔合わせ」「顔向け」「顔に泥を塗る」など、慣用的な言い方もあまた。
しかして、草木に「顔」はあるか?ひまわりに「顔」を想起できなくはないが、肝心の「朝顔」は、どうか?桜の木に、はたして「顔」はあるか?

「顔」は、つねにフロントであり、眼(め)が口ほどにものをいうわけである。子どものころから、くだものや石ころに、よく顔を描いたものである。それは、親しみの表現であるが、なによりそのことが楽しいのである。

おもえば、イナイイナイバアは、もっともシンプルな遊びである。顔を見て育ち、顔を見交わして安心を得てきたわけである。

 〈春風や象のお尻が顔と見え〉

ボクは、「顔」について表現したいとおもい、「顔」について想念をめぐらしているうちに、さきの俳句にいたりついてしまった。

どうも、いまのボクは、おかしなことになっている。
2011-11-23 10:49 | 記事へ |
2011年11月21日(月)
〈教材主義〉ということ
〈教材主義〉とは、何か?〈教材主義〉に対立する概念は、何か?

教科書に掲載されている物語や説明文を読むことにおいて、今日から「ごんぎつね」を読みます、つぎの時間から説明文「ありの行列」に入りますといったふうに、教材名が前に出てくる授業展開。あるいは、年間の指導計画や学習指導案がその教科書に掲載されている文章のタイトルで記されている授業づくり。それらをもって、その授業の志向性において〈教材主義〉という用語をわたしは使っている。

そうした〈教材主義〉の授業は、教科書のことばに立ち返ること、本文にはどのように書かれていたかということをことのほか大事とする。また、教科書のことばをある意味、絶対化し、子どものことばよりも価値の高いものとして、その表現に従わせようとする。『おおきなかぶ』の「おじいさんは、かぶをぬこうとしましたが」ではなく、「おじいさんは、かぶをぬこうとしました。けれども」でなくてはいけない。本文のとおりに読まなければ、間違いにされてしまう。

そうした〈教材主義〉に対する、あるいは対立的ないきかた、その志向性を仮に〈題材主義〉あるいは〈テーマ主義〉と呼んでみる。そもそも、教材は、教授学習過程を媒介する材料、materialである。食材がなくしては、料理は成り立たない。
2011-11-21 10:13 | 記事へ |
2011年11月17日(木)
詩の授業を考える
詩の授業は、何をめざすのか?

詩のことばは、日常の用をたすことばとは違って、それだけで自立する純度の高いことばである。また、それゆえに、詩のことばは、美しい。

たとえていえば、純米吟醸酒である。精米によって、酒米は研かれ、いくつかの段階をへて、やがて酒に醸される。その清らかさと輝きは、えもいわれぬ水の魅力に満ちている。

酒たるもの、飲んではじめて酒である。見ているだけでは、つまらない。詩のことばも、食されなければいけない。

詩のことばの風味を楽しみ、その妙なる味のゆえんに論理をもって深く想いをいたすこと、すなわち、読者たるその人の知識と経験に培う想像力を全開して、詩のことばとともにクリアなイメージを描きつつその詩を吟味、玩味すること。そのことが、肝要ではあるまいか。

詩のことばは、生きられねばならない。ボクは、いつも、そのことを基本としている。
2011-11-17 10:51 | 記事へ |
2011年11月14日(月)
ニッポンの国語教育を変えるがじゃ
昨年、世にもてはやされた『龍馬伝』がまるで夢まぼろしのように想われる。

僕は、熱に浮かされたように、「ニッポンの国語教育を変えるがじゃ」と叫んでいた。

先日、学会で高知に出向き、桂浜の横顔の龍馬に出会った。眼下には、みはるかす海。ときは、ゆるやかであった。

あらためて、龍馬の志を胸に、ニッポンの国語教育について考えてみたい。
2011-11-14 14:40 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2011年11月09日(水)
小さな国語の研究会
来たる12月3日の午後1時より、大阪教育大学の天王寺キャンパスにて、大阪国語教育実践会による小さな国語の研究会を開催します。

くわしくは、下記のHPをご参照ください。

http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~toshiya/2010/jdc_001.htm

今回は、俳句や古典の授業について考え、俳人の坪内稔典先生による「正岡子規の言語生活」についての講演をお聞きします。

「ことばと生きる・ことばを生きる」、それが今回の研究会のテーマです。

どうぞ、よろしくお願いします。

2011-11-09 20:12 | 記事へ |
2011年10月04日(火)
金木犀の花と薫り
 2008年、10月5日、名優・緒方拳が他界した。おもえば、金木犀の花薫るときであった。

   金木犀咲きし名優逝きし時

 当時、作った句をふと思い出した。

 栗の季節から金木犀へ、そして渡り鳥のときに向かって、ときは、移ろう。

 あらためて、おのが感受性を磨いていきたい。

2011-10-04 22:25 | 記事へ |
2011年10月01日(土)
秋をゆく
9月はじめ、大学間の学術交流で、韓国の全州教育大学校を訪れた。

ソウルを東京とするなら、全州(チョンジュ)は、仙台といったところ。

自動車で一時間あまり、百済の都を復元した、百済文化団地を見学した。

白村江の戦いの往時をしのび、日本と韓国、朝鮮と日本とのかかわりに深くおもいをいたした。

ハングルの国の現場から、たくさんのことを学んだ旅であった。
2011-10-01 10:08 | 記事へ

2011年07月14日(木)クヌギの木の実

昨日、バス停近くの道端で、クマゼミとおぼしき脱け殻を二つ見つけた。

今日、チイチイと忙しいまでの蝉とゆるりとしたキリギリスの鳴き声に耳を傾けた。

確実に、晩夏へと時は傾いている。

折しも同じバス停近くのクヌギには、さみどりの若い木の実の用意がなされていた。

秋あがりの吟醸酒が待たれてならない。
2011-07-14 18:11 | 記事へ |

2011年07月13日(水)桔梗の花

梅雨明けに時を同じくして、桔梗の花が咲き始めた。

まさに、秋近う(あきちこう)なりにけりである。

随筆「一日一話」を書こう

小学校の新しい学習指導要領では、高学年になると、国語科で「随筆」を書くことが求められている。

われわれも、子どもにまけず、どしどし「随筆」なるものを書き始めてみたい。

梅雨明けの太陽の光は、なぜか白く明るい。
2011-07-13 10:34 | 記事へ

2010年05月10日(月)桐咲いて

桐の花のむらさきが美しい。

季節は、時とともにめぐる。そんな、ごく当たり前のことが、とても不思議に感じられてならない。

桐咲いて雨に言の葉きえさりぬ

偶感の一句である。
2010-05-10 17:03 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年05月06日(木)立夏をすぎて

今年の立夏は、5月5日。暦どおりに、まわりは初夏のよそおい。

今日、道ばたに、カタバミの花を見つけました。

坪内稔典さんの句に、つぎの句がある。

炎天のかたばみの花へまず

カタバミは、とても小さな花です。
2010-05-06 12:53 | 記事へ

2010年05月04日(火)今年の桜

あらたなる一年の旅さくら咲く

今年の桜は、天候不順のこともあって、例年以上に長く眺めることができた。

今年は、花よりも葉の芽生えが待ち遠しく感じられる。
2010-05-04 18:28 | 記事へ

2009年06月23日(火)民話の音読

再話されて文章となった民話の本文を声に出して読むばあい、どのようにすればよいのだろうか。
民話は、もともと語りの文芸であり、だれかに物語られたものである。本来は、話しことばであり、そこには生活のことばが息づいている。
わたしたちは、とかく民話なら民話なりの語り口調があるとおもいがちである。その典型が、かつての「日本昔ばなし」調である。実のところ、それは、多くの場合、その俳優のキャラクターのたった読みとなっている。よく聞いてみると、それは、普通の話しことばとちがって、不自然なイントネーションになっている場合が多い。
民話は、語りである以上、再話されたテキストを読む場合でも、できればテキストをみないで、語ってみたい。話の筋がちがわなければ、お話として成立するのである。もちろん、なかなかに容易なわざではないが、いわば外国語の翻訳のように、しっかりと読み込んだうえで、ところどころに民話本来のことばをとりいれながら、自分なりの生活のことばで語りなおしてみよう。
そして、あらためてネイティブの語る民話に耳を傾け、その地域ならではの、ことばの調子や情感を味わってみよう。
だから、民話ないしその文章として再話された表現は、耳で聞くか、目で読むのに適しているジャンルと言えそうである。
2009-06-23 13:17 | 記事へ

2009年06月22日(月)

大阪国語教育実践の会
この夏の8月11日(火)に、大阪教育大学の天王寺キャンパスで、研究会をおこないます。
もと兵庫教育大学長の中洌正堯先生、『綴方教育論』の著者の野名龍二先生を講師としてお迎えします。実践報告もおこないます。
また、『大阪国語・JDC』の第3号も出す予定です。
この機会に、あらためて〝子どもとつくる国語・文学の授業〟について考えてみたいとおもいます。
研究会のことは、下記のところ。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~toshiya/2009/index.html

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